七年の状況を第五十九銀行の報告書は「米価ノ騰勢殆ト底止スルナク(中略)藁工品ハ(中略)輸出敢テ好況ナラスト雖モ尚相当ノ荷動アリ、林檎ハ被害アリシガ輸出期ニ至リ稀有ノ高値ヲ示シ又南部方面ノ漁況ハ薄漁ナリシモ牛馬木炭雑穀等ノ価額昂騰セル等(中略)市況概シテ活況ヲ呈セリ」とする。『弘前新聞』の長谷川竹南は、以上のほかに、「中央と異なり成金少なく、人民の反感なきこと、性温順にして、上の命に従う」県民性を挙げている。また、『青森県労働運動史』第一巻(青森県民生労働部労政課、一九六九年)は、当時の本県の社会構造を分析し、農家が五四・五%を占めて近代的な工場労働者が少なく、工業戸数六千の中で働く、五・六%の労働者も職人・職工がほとんどで、小市民中心の不満、爆発は起こりようもなかったと述べている。
しかし、一九一七年(大正六)に起きたロシア革命と、翌年八月から二十二年十月にわたったシベリア出兵は、本県にも大きな影響を及ぼした。弘前の第八師団管下の第一六旅団に出動命令が下ったのは大正十年(一九二一)十二月十四日、翌十一年四月には第八師団全部の派遣が決まり、司令部以下青森を出港、ウラジオストクに上陸、治安と交通路守護の任に服した。この年の十二月二日付の『東奥日報』に本県初の反戦デモが行われたことが報じられた。
一年志願兵の入営に際し社会主義者として注目されて居る中郡和徳村野呂衛(二八)は歩兵第五十二連隊に入営すべく、午前八時二十分ころ十数名の友人等に見送られて自宅を出て聯隊に向いたるが、見送りの同主義者青森市大沢喜代一外一名は約一丈の黒旗を押立て、大鰐村瀬尾某は新調の赤旗をたて和徳町を通行の折は革命の歌を高唱し、巡査交番所前に差かかるや警官は赤旗を持った瀬尾を引致した。(中略)営兵所前において大沢は告別のあいさつをなすとて「野呂君は帝国主義者でもなし、無政府主義者でもないが、今回の入営を機会に軍隊を研究し来るべき革命云々」と述べたるとき、私服の憲兵は革命などというなと注意し野呂は第三中隊に入営し、見送人も中隊に赴きたるに、警官は中隊事務所に大沢と岩崎武四郎の二名を引致し警察に引揚げたり。
デモ隊が歌った革命歌とは次の歌詞である。
あゝ革命は近づけり
あゝ革命は近づけり
起てよ 白屋らんる(襤褸・ぼろ)の子
醒めよ 市井の貧窮児
あゝ革命は近づけり
あゝ革命は近づけり
起てよ 白屋らんる(襤褸・ぼろ)の子
醒めよ 市井の貧窮児
あゝ革命は近づけり