供出と配給

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他の都市と同様、弘前市でも軍需物資が乏しいため、当局を通じて物資の供出が徹底された。全国各地で行われた有名な金属回収は弘前市でも実施された。一般家庭のやかんや鍋など、金属類の回収が隣組の協力で強制的に実施されたのは有名である。神社仏閣、とくに寺の梵鐘に対しては、その取り下げ方までマニュアルが用意されるほど、執拗な手段が講じられていた。しかし昭和十七年(一九四二)十一月に青森・弘前・八戸三市で実施された鉄と銅の回収成績を見ると、八戸市の鉄を除けば目標量に届いていない。そのため翌年の二月十八日に、県は金属類特別回収事務打合会を開催し、市町村に対し再度の目標達成を鞭撻している。
 金属回収が徹底されたことにより、弘前市のりんご農家では荷造用の釘不足に悩まされた。金属ではないが、りんご箱の不足も業者にとって頭痛の種だった。そのため県は弘前市に対し代用釘の配給を指示している。弘前市の場合、その取次会社に角弘鋼鉄店が当たった。割当数量は昭和十七年十一月三十日の時点で、市に対し一樽三〇キログラムで、統制出荷組合農会産業組合などで協議し適正配給するよう命じている。物資の供出の代替として市民は配給生活を強いられたのである。雪国である弘前市にとって重要なストーブの煙突に使われる亜鉛鉄板も、金属回収の影響で配給制になり、ガラスも配給統制となった。

写真29 大日本国防婦人会の廃品回収

 金属回収政策のなかで弘前市民に衝撃を与えたのが、津軽藩の藩祖で弘前市民の誇りだった津軽為信像の供出だった。昭和十八年(一九四三)四月二十日、戦時資材として非常回収を即時断行するよう軍から要請があった。市ではできれば保存したいと考えていたが、十月十一日、市会に供出の件を諮った。さすがに市会では議論が分かれ、この日は審議を保留し、決定を先送りした。明けて十九年一月二十六日、保留としていた件を市会が再議しようとしたところ、葛原市長は「今少シク考ヘタイ事ガアルカラ」として、この案件を撤回した。しかし再三にわたる県からの要請と軍の圧力を受けて、四月二十八日、万やむなく供出の件を市会に再上程し、審議の結果、可決となった。銅像自体は八月八日供出された。
 『東奥日報』は「為信公銅像晴れの出陣」と報じ、弘前写真報国会員が総出で供出の一部始終を撮影した。供出には助役や供出関係者が菅笠に袴を着用し、騎馬や徒歩で付き添い、各町内会代表者、中津軽郡各村代表者なども参列し、獅子舞も出るなど総勢八百余人が付き添った。沿道では国民学校の児童や多くの市民が見送り、金属回収とはとても思えない儀式が展開されたのである。津軽為信がいかに弘前市民の心の拠り所であり、誇りだったのかがよくわかる。これに対して、八甲田山麓にある雪中行軍記念像は残された。軍神扱いされた後藤伍長であったがゆえに供出対象にならなかったわけだが、時代も身分も異なる銅像でありながら、戦争が両者の明暗を分けたのは興味深い。

写真30 津軽為信像の供出

 供出されたものは軍需品としての金属だけではなかった。昭和十九年四月二十八日、弘前城の堀に浮かべられた遊覧船二艘が、軍の依頼により特殊訓練用として無償譲渡とされた。また弘前市では戦争末期の昭和二十年三月二十九日、弘前公園内の動植物を「不用品」として売却処分することとなった。これにより鹿二頭、猿一頭、鶏三羽が「不用品」の対象となっている。
 軍需品だけでなく食糧や日常物資なども、出征兵士のために多くが供出対象となった。当然諸物資を供出する市民は、配給統制生活に頼らざるを得なくなった。白米は極端に不足し、混食品が調査の対象となり、稗・粟などが混じった雑穀が当たり前の食事となった。市の調査でも甘蔗は当分入荷の見込みがなく、栗も出荷がおぼつかなく、干しうどんや稗がなんとか配給できる状態だった。節米用として食パンの配給も実施されたが、五人家族で二枚ずつの割当と、その分量は生きていく上でやっとの量だった。もちろん購入に際しては配給券が必要で、配給券も一人当たり〇・四枚の割当だった。酒類も配給の対象だった。家庭用葡萄酒が昭和十九年二月末の段階で四合弱、二円近い値段で配給された。弘前市はりんごの産地でありながら、りんご酒も配給生活を強いられた。配給価格は二級が一本二円三〇銭、三級が一円九〇銭と非常に高価だった。