バス事業の本格化と戦時下統制

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このように明治以来、鉄道敷設についてはさまざまな策が講じられ、多くの利用者がその利便を享受してきたが、鉄道輸送に比べて施設上簡易・迅速で、頻繁輸送と交通量の少ない地方の連絡輸送に適するものとして乗合自動車が挙げられる。わが国でバス事業が創業されたのは、明治三十六年(一九〇三)で、広島・大阪・京都においてであるが、弘前市におけるバス事業の始まりについては定かではない。本格的なバス会社として、昭和五年(一九三〇)六月に既存の齋吉旅館自動車部と大室旅館自動車部が合併し、弘前乗合自動車株式会社が設立された(資料近・現代2No.二一三)。昭和十一年、石郷岡市長のときには弘前市が弘前乗合自動車を買収し市営バスの実現に乗り出そうとしたが、買収額に関して会社側と折り合いがつかず決裂した(同前No.二一五~二一七)。
 次の乳井市長のときに再びこの問題が起こり、市では市営バス調査委員会を設置して局面の打開を図った。しかし、弘前乗合自動車側は新車輛の購入と路線の拡張によってすこぶる収益を増大させているので、石郷岡市長時代には会社側の売値は約一六万円であったが、今は二〇万円は下らないとの風評もあった。さらに、弘前乗合自動車内部でも、重役が市営賛成派と反対派に分かれて双方が株式獲得戦を展開した結果、市営反対側か買収株数において勝利を得て、市営バス構想は挫折したかに見えた。一方、市当局は、市長をはじめバス調査委員が上京して、鉄道省、内務省、大蔵省等の各当局に事情を訴えて諒解を求める活動を展開したほか、県当局へも陳情した。昭和十五年五月十九日付の『東奥日報』ではこの問題に対する政府の意向を次のように報じている。
【東京支局発】弘前市営バス問題鉄道省が原則的には市営に異論はないが買収価格の点について難色を示した為乳井市長等は目下買収した後の経営による収益勘定の数字的根拠並に津鉄、弘南側との路線変更に関して協議を続けて居るが目下の処では市営案に可否は不明で海のものとも山のものとも判然出来ぬ模様である。元来鉄道省では津軽方面のバス路線を津鉄、弘南両鉄道の経営二本建として居たものであるが偶々弘前市がバス経営を希望するに至ったのでこれに弘前も加へて原則としては三本建とする計画となっていたものである。従って鉄道省自体としても弘前市営に根本的に反対しているものではなく買収価格が既報の通りであるとすれば其後の経営、起債の償還等に影響し市営実施の理想と相反すると云ふ意向なので弘前市としてはこの経営上の点に関し本省の諒解を得れば県庁を通じて正式書類を提出することになる筈である。

 結局、昭和十五年六月十七日の弘前市会において、弘前乗合自動車の株式の全部または過半数を買収することを可決しているが(資料近・現代2No.二二二)、昭和十六年四月には戦時下の国策としてのバス事業の合理化により、弘南鉄道が弘前乗合自動車を買収し、その弘南鉄道自動車部が独立して弘前自動車(のちに弘南バス株式会社と改称)となるなどしたため、再び市営バス構想は頓挫した。なお、戦前には弘前市を起点に平川バス(代官町、平川力の経営、弘前-町居間)、弘前エビスバス(百石町、竹内兼吉の経営、高杉線・板柳線・相馬線)、花岡バス(花岡文次郎の経営、弘前-藤崎間)が営業していたが、いずれも昭和十六年までに弘南バスに買収、統合されている(同前No.二二三)。

写真41 統制で弘南バス一社となる(昭和16年)

 昭和十六年八月には戦時下の統制のあおりを受け、ガソリンの配給が停止になり、バスの燃料は木炭、薪、プロパン、メタノールへの切り替えを余儀なくされた。同十八年になると、車輛の部品も入手困難となり路線の休止が相次いだ。運行できる車輛はわずか一三台にまで落ち込み、燃料の木炭さえ極端な品薄状態に陥った。終戦間際の昭和二十年七月には車輛や物資を疎開するまでに追い込まれたのであった。