りんご加工業と輸出

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りんごの加工は、明治時代にすでに始まっており、弘前の菓子商がりんごようかんを製造したのが最初とされているが、記録では、明治三十九年(一九〇六)、弘前市親方町の田辺富吉が砂糖漬りんごを考案しており、「園の日」とか「干りんご」の名で販売した。大正時代には、弘前代官町の菊池甘栄堂がりんごようかん、干りんごの新聞広告を載せている。
 りんご酒は、明治末期から弘前市の酒造業松木合資会社が酒造りのかたわら、りんご酒ブランデーの醸造を行い、大正十五年(一九二六)の弘前商工案内にその広告が掲載された。昭和元年(一九二六)の大豊作は、りんご価格を暴落させたが、同時に加工の必要性を痛感させた。竹舘産業組合(現平賀町)の相馬貞一は、昭和二年(一九二七)、組合の経営の一環として石川駅前に加工場を開設した。そこでは、ボイル、ジャム、缶詰、飴、シロップ、ようかんなど多様なりんご加工品が製造された。
 南津軽郡五郷村(現青森市浪岡)出身の成田匡之進は、弘前市富田の陸奥製糸株式会社の専務となり、昭和五年(一九三〇)の生糸大暴落で会社解散後、苹果試験場の古市技師の指導を受けながら乾繭場を利用して乾燥りんご製造に成功、昭和七年(一九三二)に日本乾燥リンゴ加工場を設立した。昭和十四年(一九三九)、匡之進没後は、その息子たちが事業を継ぎ、昭和十五年(一九四〇)の実績は乾燥りんご二万貫、りんご酢二〇〇石の業績をあげたが、昭和十六年に設備一切を株式会社御幸商会(後述)に譲渡した。
 昭和九年(一九三四)の救農国会において、窮乏農村更生のため農村工業三ヵ年計画が打ち出された。それに基づいて、昭和十一年(一九三六)、県販売購買利用組合連合会弘前林檎加工場設置が決まり、翌年から操業を開始した。製造品目は、りんご液、乾燥りんご、りんごジャム、シロップ、りんご酒などである。

写真45 県購連弘前林檎加工場(弘前駅前)

 竹舘産業組合でシャンパン事業に従事した佐藤弥作田中武雄は、昭和十四年(一九三九)、黒石町前町に御幸シャンパン商会を設立したが、翌年弘前市富田に移転し、株式会社御幸商会と改称した。酒類の製造制限のもと、日本酢、ビールが不足していたため、シャンパンやりんご酒の販売に苦労する時代ではなかった。事業は当初、軍への納入、大陸への輸出などで順調であったが、昭和十八年(一九四三)からのりんご減産と戦争の圧力により急速に衰退した。
 青森りんごの輸出は、大正時代に青浦商会がウラジオストクへ輸出したころが最も盛んだったが、大正十一年(一九二二)にウラジオストクがソビエト政権統治下に入って以降、禁止的関税がかけられて途絶し、ウラジオストク経由の満州輸出も同時に途絶えた。また、大正期のりんご生産量の低迷と価格の高騰もあり、輸出の必要性も薄れていた。
 しかし、昭和元年以降の大豊作は再びりんご輸出の必要性を痛感させた。輸出振興の声は、まず青森県林檎同業組合からあがり、その別働隊としての日本苹果株式会社によって、大正十五年(一九二六)、上海輸出が計画された。しかし、苹果株式会社がまもなく解散したため、実現はせず、その後、青森市の移出業者によって細々と続けられた。
 一方、中国大陸では昭和六年(一九三一)の満州事変以来、日貨排斥運動が高まるが、輸出先は中国から、南洋、インドへと伸張した。昭和十二年(一九三七)の日中戦争勃発当初、中国への輸出は激減するが、競争相手であるアメリカりんごを排除した後は中国市場を制覇した。
 植物防疫の点て害虫のハリトーシが問題になったが、県の要望で昭和十四年(一九三九)青森港が苹果輸出検査海港に指定され、弘前、大鰐、浪岡、尾上に燻蒸庫が設置された。
 また、日本の中国大陸進出と主要都市の占領によって、青森りんごの対中輸出は一段と進められた。そこで県は、りんご関係団体を網羅した輸出の一本化体制を企て「青森県リンゴ輸出協会」を設立し、輸出に力を注いだ。しかし昭和十八年(一九四三)以降は、船舶の不足、生産量の減少によって輸出は低調となった。中国大陸進出に便乗してりんご輸出が増加をみせたのは昭和十三年から十八年までの六年間にすぎなかった。

写真46 林檎果実輸出問屋・今野栄太郎商店