東奥義塾の昭和

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大正十五年、東奥義塾は再興五年目を迎えた。学級数一二、生徒数は四九二人を数えるまでになっていた。
 昭和三年四月、評議員をしていた藤田謙一から、岩木山麓にあった農牧場と育英社の資産を寄贈するという申し出があった。藤田謙一津軽藩士明石永吉の次男で、東奥義塾の卒業生であった。上京して苦学力行、実業界にあってめきめきと頭角を現し、東京商工会議所会頭や貴族院議員を務めた人である。これらの莫大な資産が義塾の経営に大きな力となった。
 五年七月、東奥義塾火災に見舞われた。全職員が塾長宅に招待されていて不在のときに起こった。校舎の二階図書室付近から出火し、二階のほとんどを焼失した。この火災は、生徒の一人が教室内で喫煙し吸い殼を捨てたことが原因とされ、失火罪で送検された。また、九月には西側L組教室から出火。さらに六年一月、東側板倉を焼失した。これらの火災は不審火とされ、未解決のまま終わっている。
 新校舎の建築は昭和六年五月に着工され、六月二十八日の再興十年記念式典挙行の日を期して定礎式を行い、十一月には新築落成式が行われた。席上、C・アイグルハートに「師は前後二回に亘り米国に建築資金を募集し其努力よく艱難(かんなん)を排して目的を達し茲(ここ)に鉄筋コンクリート三階建本校舎を建造し以て今日の落成式を挙ぐるを得るに至れり」という感謝状を贈っている。
 たびたびの災いを転じて福となす形で新築された鉄筋コンクリート造三階建ての近代的な校舎は、他の公立中等学校が木造校舎であるのに比べて、きわめてモダンな校舎としてお目見えした。しかし、世界大恐慌の渦中にあった経済界は、多難な時期を迎えており、東奥義塾も例外ではなかった。新入生が激減して、毎年一〇〇人を切る状況が続いた。昭和七年は六四人、昭和十年になっても八〇人にしかならなかった。これは私学にとって学校経営を揺さぶるものであった。

写真65 東奥義塾校舎(昭和6年11月)

 満州事変後は、非常時という意識が高まり、学校へも戦争への協力が要請されるようになったことは弘中と同じで、中等学校には現役の陸軍将校が配属され、軍事訓練の強化が図られていたが、ほかにも軍事査閲、演習への参加、見学などがあった。また、軍隊が出動・帰還するときの送迎も盛んに行われた。これはミッション義塾といえども例外でなかったのである。
 義塾は再興されたが、塾長笹森順造は自由教育に加えて、剣道による心身の鍛錬を重視した教育方針を打ち立てた。特に昭和初期から十年ごろまでは最盛期であった。四年には青森県代表として出場した二年生の榊修吾が、明治神宮の剣道全国大会で少年の部で見事優勝を飾った。笹森塾長自身、剣道では「小野派一刀流」免許皆伝の持ち主であった。当時花形であったグライダー部を初めて創設したのも義塾である。昭和十二年六月、運動場で新設されたグライダー部の結成式とグライダーの命名式が行われている。これは、本県はもとより、全国的にも先駆けをなしたものであった。
 この年は、稽古館創立百四十周年と東奥義塾創立六十五周年の記念すべきめでたい年にも当たっており、各種記念事業の一環として、グライダー部も創設されたのである。また、この年には日華事変が勃発し、職員から応召者や退職者が現れ、第二学期の開始が危ぶまれたほどであった。このころになると、単に戦争体制に協力するだけでなく、精神面における皇国化が進んでいた。国民精神総動員強調週間では、塾長自らが大書した「皇道蕩々四百余洲」の幟(のぼり)を校舎前に掲げたり、職員が月給の一二分の一、生徒は一人五銭ずつ醵金していることからも、その傾向は十分うかがうことができる。
 昭和十四年、再興以来最も功のあった笹森順造が青山学院長に就任した。退任に当たって「皇民錬成」の辞を残したが、戦時体制、軍国主義、聖戦にあえて協力しなければならない義塾の立場と、教育者として、また、キリスト者としての苦悩やジレンマが色濃くにじんでいる。
 昭和十六年になると、戦争はますます鮮烈の度を加えていった。伊藤弘前師団長(昭和十五年、第八師団を改称)や多数の来賓を迎えて、東奥義塾報国団発団式があった。勤労奉仕のために授業どころではなく、馬屋町の畑作業、小比内農場の作業をはじめ、忠霊塔の整地や砂利運びなどに汗を流していたが、昭和十九年には、五年生九三人に川崎市の東芝電気工場への学徒動員令が下された。八月八日、津軽藩祖為信公の銅像出陣を見送った後、十一日には出発している。義塾における学徒動員の第一号であった。終戦のとき学校に残っていたのは、一、二年生のみであったが、英語などは敵性語として、授業から外す学校が多い中にあって、義塾と弘中だけは最後まで英語の授業は行っていた。

写真66 東奥義塾学徒動員(川崎・昭和19年8月)