ところが、それから五年後の昭和五年六月十五日午後三時、時敏校から出火して女子実業も類焼してしまった。火の勢いは凄まじく、市の消防隊は他への延焼を食い止めるのに必死で、ほとんど全焼に近く、重要書類を辛うじて搬出しただけで、ピアノや校具、教材などは全部消失した。時敏には尋常小学校、高等小学校、女子実業の三校を収容していたので、校舎延べ建坪にして一三五五坪余、児童・生徒約一六〇〇人を擁する弘前市最大のいわゆるマンモス校であった。火災による損害は、約二〇万円に上ったといわれる。出火場所は校舎裏手の便所付近とされたが、出火原因はついに不明のままだった。
市内各校に分散して、二部授業などで対応したが、女子実業は第二大成尋常小学校や桔梗野にあった旧歩兵第三一連隊兵舎へ移って授業を続けた。かなり不便な環境であったが、誰一人不平を言わずによく我慢したという。翌年一月には、元寺町に時敏尋常高等小学校が再建されたので、ようやく併設の女子実業学校も第三学期の始業式を行うことができた。
昭和十年には、青年学校令によって実業補習学校規程が廃止されたことから、高等女学校への変更を申請し、十月一日、女子実業学校から四年制の弘前実科高等女学校に昇格した。十一年の生徒数は、本科一七七人、補習科二七人の計二〇四人であったという。さらに翌年には、補習科の卒業生には小学校裁縫科専科正教員免許状(無試験)が与えられることになり、これで他の高等女学校と肩を並べることになった。このころは、また、いわゆるバザーの流行期に当たっていたようで、実科女学校においても毎年のように開催し、盛況を呈した。
十三年になると、防空演習に参加したり、冬休みに出校して軍需品のズボン下の縫製作業をしたりした。忠霊塔建設のための石を採集したり、養蚕、南塘農園の農作業などに精を出している。武運長久の祈願のために、岩木山や高照神社に全校で参拝するなど、戦争の影響は次第に強くなった。
写真73 農耕作業に出る弘前市立弘前高等女学校生(昭和18年頃)
十八年には弘前市立弘前高等女学校と改められたが、九月にはもう一度変わって、弘前市立高等女学校になった。翌十九年には女子勤労挺身隊を結成、三〇人が大湊航空隊へ動員されている。高杉・独狐の託児所にも出かけている。同窓生の浅田タマ(昭和二十二年卒)は、当時のことを次のように回想している。
十九年になりますと、益々これらが強化されて、各学年は勤労動員、託児所、あちこちの農園に出動しはじめました。路上の馬糞あつめ、公園演舞場前の開墾、秋の稲刈りなどで、雨の日だけ授業でした。(略)桜の花が咲き満開の花の中で農作業という状態でしたが、戦いに勝ちぬくために一生懸命でした。
(『弘実10周年誌』)
昭和二十年に入ると、戦況はますます不利になり、四月沖縄が陥落、本土決戦を覚悟したが、八月には広島・長崎に原爆が投下され、ついに十五日終戦が告げられるのである。