凶作と小作争議

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本県に恐慌の影響が本格的に現れるのは昭和五年末からで、ついに昭和六年、凶作の不安や不祥事で第五十九銀行が十一月に三週間の休業となり、弘前銀行、尾上銀行三戸銀行も休業、県下経済界や人心の動揺は言語に絶した。小作争議は、昭和二年の四件が四年には八倍の三二件となった。身売り娘などの哀話が続き、津軽の青年将校たちが参加した五・一五事件二・二六事件などが続発する。
 昭和六年の本県の稲作は大正二年以来の凶作となった。県では郷蔵の設置、自給肥料の改良増殖、産業組合の設置、多角的農業経営を奨励して対策を講じたが、農家一戸平均負債九二〇円、県下の農家負債総額五五〇〇万円以上では対策は空しかった。経済界の不況は、地主による土地返還要求や売却、競売処分をもたらし、小作人の自覚向上、農民組合の発達は争議の激増となり、参加人員も昭和二年の九人が六年には二八八人と三〇倍になった。なお、副業的な出稼ぎ漁夫は、昭和六年には一万五〇〇〇人と半減している。弘前管区では昭和八年の場合、統計に出ているのは七二五人、特徴的なのは石川町から北海道へ七三人、相馬村の出稼ぎ者は全員樺太へ二四〇人、豊田村は八一人のうちロシア領へ六〇人という多人数が赴いており、逆に清水村は全出稼ぎ者がわずか一人、千年村八人、裾野村六人という少数である。
 昭和六年、弘前警察所管内の小作争議は、反別一三町一反二畝、関係地主五人、小作一八人、要求は小作継続希望四件、小作料一時減額一、永久減額一で、同年中に解決三件、未解決二、法調停二件である。