農地改革と自作農創設

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第二次大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)という名称とはいえ、事実上アメリカ一国の占領下に置かれたわが国が最初に要求されたのは、非軍事化と民主化であった。GHQは日本の封建的遺制を除去するためには農村の民主化が最重要であると見なし、特に、戦前における農村の最大の問題であった「地主的土地所有」と「高額現物小作料」の改革を当面の緊急課題と考えていた。国内においても戦時中の農業生産力の低迷から、次第に地主的土地所有の規制と自作農創設とに向かっていたが、日本政府は、大戦終了後も徹底した土地改革に手をつけようとはしなかった。
 そこでGHQは、昭和二十年(一九四五)十二月九日、「農地改革に関する覚書」を発し、日本の農民の五つの「病根」を指摘した。具体的には、①零細小規模農業経営、②不利な条件下にある多数の小作農民と収穫の半分以上を占める小作料、③高率の金利と負債の重圧、④不利な農村の財政政策、⑤農民団体に対する政府の権力的統制にあると指摘し、それらの除去を指示した。
 なかでも、農業改革の最大の鍵は、地主制を廃止する農地改革であった。GHQは、昭和二十一年(一九四六)三月十五日までに、農地改革案の提示を日本政府に求めていたが、日本案の第一次案は地主制度温存の抜け道が残されていたため、GHQの承諾を得ることができなかった。日本案が定まらない中で、連合国軍の一員である旧ソ連邦が「全小作地の自作化、六ヘクタール以上の無償没収」の提案をしてきたため、広範な小作貧農に歓迎されることが予測された。これに対しアメリカは、日本農村の民主化の必要性を願っていたものの、共産主義の浸透を望んではおらず、そのため「不耕作地主の小作地保有を平均一町歩」、「有償買収」にするとした穏当なイギリス案を支持したことから、対日理事会においてイギリス案に決定された。日本政府は、この決議に従い、昭和二十一年十月二十一日、第二次農地改革案(「自作農創設特別措置案」、「農地調整法改正案」)を国会で議決し、実施に移した。
 第二次農地改革案は、①不在地主の全貸付地と一ヘクタール以上の在村地主の貸付地を国が直接強制買収し、小作農に売却、②地主による土地取り上げの制限強化と耕作者保護、③地主不利、小作有利の市町村農地委員会の委員構成(地主三・自作二・小作五)など、第一次案と比べると小作への農地解放を大幅に進める内容となった。その結果、全国的には、農地改革前(昭和二十年十一月)の農地総面積五一五万六〇〇〇町、うち小作地面積二三六万八〇〇〇町(小作地率四五・九%)が、実施後(昭和二十五年八月)には、農地総面積五二〇万町歩、うち小作地面積五一万五〇〇〇町歩(同九・九%)と小作地は激減した(農地改革記録委員会編『農地改革顛末概要』農政調査会、一九五一年)。

写真122 農地改革を伝える『東奥日報』記事(昭和20年12月12日付)

 戦後の農村民主化の一環としても重視された農地改革に当たっては、地主小作人の直接交渉は認められず、農地委員会での審議と決定が重要な役割を果たし、特に県と市町村の委員会が実質的な権限を有していた。市町村農地委員会の委員選挙は、青森県では昭和二十一年十二月二十三日、各市町村で一斉に行われた。
 清水村農地委員会(下山平吉委員長)では、農地改革の趣旨について自作農創設を最大の目標に「農地改革制度ノ精神ヲ真摯ニ取入レ研讃〔鑚〕シテノ合議ニ基イテ実地厳調ノ上農民ノ安定ヲ期スベク極メテ厳正妥当ニ農地問題ニ関シ処理」(「清水村農地委員会の決議文」、資料近・現代2No.四一九)することに努力した。農地委員会では、地主小作人の双方からの「申立事項」を法の趣旨に照らして、裁定することが重要な仕事であった。清水村の「自作農創設特別措置法第七条一項の異議申立決定の件」(同前No.四一八)によれば、その内容は地主側からは、該当地が自作地になる予定であることを理由にした「買上除外の申立」、保有希望地の確保のために代替措置として他の土地の解放「変更要求」、自作地であることを理由に「買収除外の請求」などを求める要望が多く出された。小作人からは、保有限度を超えた土地の「買収計画」要求が多く見られ、小規模地主小作人の耕作権、売渡し先をめぐる対立が主要なものであった。
市町村農地委員会は、小作調停の斡旋機関の性格を付与されており、地主小作人間の調停を積極的に行った。中津軽郡では、昭和二十二年(一九四七)から同二十五年(一九五〇)にかけて、五四五件の調停件数があり、その多くは県全体同様に、地主は「土地返還」、小作人は「小作継続」に関係するものが多かった。しかし、旧弘前市を含め中津軽郡は異議申し立て件数とそれによる調停件数が各郡のなかでもいちばん少なく、地主側の土地解放への理解が高かったと評価されている(『青森県農地改革史』、一九五二年)。申し立ての結果は、農地改革の初期には、各農地委員会において一般に小作委員の力が強く、小作人の立場がより擁護され、自作農民を創設する方向で進められた。この結果、中津軽郡の買収面積は、田・二五四五・七町歩、畑・一六一三・一町歩を数え、これは昭和二十五年当時の田畑面積のそれぞれ三九・五%、三〇・六%に当たっている(旧『弘前市史』明治・大正・昭和編、一九六四年)。
 農地改革によって、りんご園地の解放も進んだ。青森県の小作りんご園の大部分は傾斜地や採草地などの部落有地で、明治三十年代から地上権の分割貸付が行われていたが、これらの土地が解放の対象となった。部落有地りんご園は、津軽郡全体で約三〇〇〇町歩に上り、農地の売り渡しを受けた農家戸数は一万戸に達し、うち中津軽郡では約七〇〇町歩が解放された。このことは零細りんご農家の生産意欲向上の大きな要因となり、りんごの廃園復興につながった。

写真123 りんご園風景

 こうしてわずか数年で、明治以降、わが国の農業・農村の近代化を阻んでいた地主的土地所有は基本的に解体され、多数の自作農が創出された。農地改革が農村の民主化に果たした役割は極めて大きいが、その一方で均一的な「零細小規模農家」を多数生み出すことにもつながった。中津軽郡の農家も一戸当たりの経営規模は、農地改革後と戦時中を比較するとむしろ小規模になっていた。この問題は、その後の高度経済成長の中で、農家の出稼ぎ、兼業問題として表面化した。
 敗戦直後、人々を心配させたのは食糧の欠配であった。昭和二十年が不作であったこともあり、同二十一年は慢性的な欠配が続いた。同年六月、食糧営団青森県支部の手持ち米は合計一万六〇六五俵で、これは県内で二・二日分相当にしかならず、遅配は弘前市で三一日、中津軽郡で一一日に及んだ。遅配状況は、翌二十二年に入っても改善せず、そのためにGHQは供米供出の強権発動を同年三月十一日から開始し、「食糧管理法違反者」を取り締まった(前掲『新聞記事に見る青森県日記百年史』)。