農村社会の変貌と減反政策

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高度経済成長は、昭和四十六年(一九七一)のニクソン・ショックで減速し、同四十八年の石油危機で終止符を打ったが、同時並行して進んだ農業・農村の近代化は、農村社会に大きな変貌をもたらした。
 第一は、農村社会は農地改革後、均一的な農家の集まりであったが、人口の流出、兼業農家の増大により、農村社会の混住化を進行させた。第二は、農村地域就業者構成の変化である。昭和四十六年に成立した「農村地域工業導入促進法」は、工業の地方分散化を促進したことから、津軽地域にも多くの兼業先が生まれ、農家の就業構造は冬季間の出稼ぎ者の厚い層とともに在宅通勤兼業型に変化した。また、農家の在宅のままの農業離脱が増加する一方で、非農家世帯が農業集落に新しく参入するケースも見られるようになった。第三は、農村生活の「都市化」である。自動車の普及と農村部の交通網・道路整備による兼業機会の拡大、都市生活者と変わらない耐久消費財の普及などにより、生活スタイルは大差がなくなってきた。しかし、一方では、「機械化貧乏」「出稼ぎ」の増加など、新たな問題が生まれた。また、農村部住民からは、都市部と同様に下水道・し尿衛生処理施設などの社会基盤整備の要望が高まった。
 高度経済成長の時期は、農業生産の面では生産者米価の上昇と米の増収が進み、米の自給体制が整備されたが、一方では、需給バランスが崩れ、国の財政負担の増大を生み出したことから、昭和四十四年(一九六九)、生産調整(減反)が開始された。
 昭和三十年(一九五五)、合併後の新弘前市は、広範な農村部を抱えたこともあって、同四十三年(一九六八)六月、「農林業振興に関する基本計画」(資料近・現代2No.五一七)を樹立立した。それまで弘前市の農業は米とりんごの二大作物を柱に構成され、比較的安定した成長を続けており、同計画によれば、総生産額において昭和三十五年(一九六〇)の五一億八〇〇〇万円から昭和四十一年には八一億六〇〇〇万円に伸び、米の生産額が三五%、りんごの生産額が五〇%を占めていた。それゆえ、米とりんごの二大作物の豊凶が市経済全体に及ぼす影響はとりわけ大きく、そのためにも第一次産業基盤の充実を図ることが重要な施策となった。「計画」では、農業所得の目標を昭和四十一年(一九六六)度から同五十年度に向けて、専業農家(平均一農家当り)は一〇三万円から二〇〇万円以上、第一種兼業農家は五一万円から一二〇万円、第二種兼業農家は一五万円から三〇万円へ引き上げるとした。計画では、進展中の岩木山ろく開発などの規模拡大地の存在、生産性の高い米と特産物りんごの発展、東北縦貫自動車路線計画の進捗など、日本の「食糧供給基地」の中枢的位置を占めることが期待された。
 しかし、昭和四十年代からの農林水産物の自由化、国民の食生活の変化などにより、国内食料自給率は一貫して低下するようになった。その結果、第一に、地域経済に占める農業の地位は、津軽地域・弘前市は全国的には高いとはいえ、地域経済の中でも次第に低下していった。第二に、基本法農政以来、わが国農政の政策目標の一つは農工間の所得格差の均衡を図る農業所得の確保により、自立経営農家の育成を目指すことにあった。しかし、農家数に占める自立経営農家の割合はむしろ低下し、逆に農外所得に依存する第二種兼業農家の増大が顕著となった。第三に、農業担い手の弱体化である。特に、新規学卒農業就業者が激減し、農業労働力の高齢化、女性化が進んだ。第四に、耕地面積が減少したことである。この要因には、農村の都市化、宅地化か挙げられるが、後継者不足による耕作放棄地の増大もしだいに目立つようになってきた。