いくら上水道を完備し、清潔な水を確保しても、消費された大量の水が下水となり、それが垂れ流されているようでは意味がない。高度経済成長の恩恵から、人々の消費生活が向上し、都市部では人口も激増しつつあった。それは大量のゴミと下水を生み出すことになる。工場やオフィスビルが建築されれば、当然大量の塵芥・ゴミ・排水が出る。ゴミ焼却施設や下水道が完備していなければ、いきおい街の片隅や河川に廃棄される。
実際に市町村合併の前後から、上水道設備や浄水場などの建設と時を同じくして、弘前市内でも本格的な下水道設備に着手しだしている。弘前城や長勝寺をはじめ、市の名所を訪れる観光客からは、便所の不衛生さを指摘する声が高まった。弘前を訪れる人たちからの批判はなによりも痛かった。そのためにも市当局は上水道設備と同様、下水道設備の向上にも力を入れたのである。
弘前市の下水道設備向上の動きには国の動向か背景にあった。昭和三十三年(一九五八)四月二十四日、法律第七九号で下水道法が制定された。この法律は「下水道の整備を図り、もつて都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与し、あわせて公共用水域の水質の保全に資することを目的と」して制定された(下水道法第一条)。下水道設備の向上に関しては、すでに全国的規模での動きがあった。弘前市当局でも、この法律の制定を受けて下水道設備を整備し、市内の衛生問題を解決して市民の要望に応える必要を痛感していたのである。
昭和三十八年九月二十六日、市当局は市議会に弘前市下水道条例案を提出した。公共下水道の排水設備設置基準のほか、使用料と徴収方法・管理などを制定するための条例案である。条例案では悪質な汚水を流すときや、し尿浄化槽の浄水を排除するときには、市長への届出を要するなど、排水設備に詳細な規定を設けていた。使用料も基本的には排水した汚水の量に応じて算定することになっていた。一般家庭が水道を使用して排水する生活汚水(炊事・洗濯・水洗便所など)を基本に算定するわけである。料金体系としては、一般家庭と公衆浴場用で仕分けが異なっていた。双方で使用する水道の量に格段の相違があるからであろう。
下水道法の制定で庶民に身近な問題となったのは、水洗便所への改造が義務づけられたことであろう。下水道法第一一条の三には「処理区域内においてくみ取便所が設けられている建築物を所有する者」は、下水道設備が完備され「下水の処理を開始すべき日から三年以内」に水洗便所に改造しなければならないとある。しかし庶民にとって水洗便所への改造には費用的にも困難を伴う場合が多かった。そのため昭和四十八年三月十日、弘前市当局は議会に「水洗便所の普及促進を図ることを目的」として「弘前市水洗便所改造貸付金及び報奨金条例案」を提出した。議案は二十六日に可決を見た。
二一世紀を迎えた青森県でも、一部に水洗化の進んでいない地域がある。しかし多くは水洗化が終わっており、公共施設やオフィスビルでも水洗化は当然のごとくなされている。下水道設備は上水道設備と同様、我々の生活から忘れられがちである。下水道設備の設置場所を考えてみよう。下水道管は上水道管と同様地下に埋め込まれ、ほとんどその姿を見ることはない。上水道設備に不可欠な浄水場だけでなく、下水の浄化・濾過場、し尿処理施設は郊外に設置され、その存在がクローズアップされることはほとんどない。しかし水道設備に不備が生じると、生活維持上、人々はその不満を当局にぶちまける。そのときだけ水道問題を講じるわけであり、その存在が人々の意識にのぼるのである。けれどももう一度、それが当たり前なのではなく、ここに至るまでの歴史や関係者の努力を考え、市民全体が深く考える機会をもってもよいのではなかろうか。