宗套、字は
大林。【
古嶽の法嗣】
古嶽宗亘の法嗣である。京都の人、俗姓藤原氏、搢紳の家に出でた。幼にして天龍寺の天源院に入り、業を肅元禪師に受けて暍食となり、諱を壽桃、字を惟春と稱した。容姿閑麗亦文才あり、早くより名聲を博した。十七歳剃髮得度して、經藏を司どり、專ら翰墨を事とし、後笈を負ふて東西の諸名宿を敲き、修養すること多年に及んだ。【五山宗風の墮落】當時五山の宗風は、教外別傳の本旨を逸し、詞章の末に奔つて自ら高しとした。宗套此弊を破らんとし
大德寺東溪宗牧に就き、其歿後は玉英宗冏に隨ひ、【
古嶽參究】更らに
古嶽宗亘に參禪した。
古嶽が堺
南宗菴主となつてからは、共に從ふて起居し、大永五年五月
古嶽が宗安禪人の入室勘辨に際して侍者となり、
古嶽が南泉猫兒を斬るの話を擧げ、其問答の答に、心機相通じ、卽ち印可を與へられ、(
泉州龍山二師遺藁、
大林和尚塔銘)【名を宗套と改む】翌六年九月從來宗桃と稱した諱を宗套に改め(
古嶽和尚筆宗套名取狀)享祿五年七月
大林の號を授與せられた。(
古嶽和尚筆
大林號偈)然も未だ幾何ならざるに出でて大德禪寺に住し、
古嶽の法嗣で同門の法兄
傳庵宗器が、天文二年三月
南宗菴に示寂し、(
泉州龍山二師遺藁、紫巖譜略)菴主を置くに及び、【
南宗菴主】
大林師命によつて同菴主となつた。是に於て宗門大に振起し、法燈の餘焔復其光を增した。
古嶽は
大林に
大德寺出世を勸めたが、
大林は時未だ到らざるを理由として再三之を辭退した。四年
古嶽は書を
大林に寄せて、猶ほ吾が命を肯かないならば永く師弟の義を絶つて、吾が法屬たることを除かんと強ふるに及び、止むを得ず一笠一杖僅かの荷物を肩にして遂に
南宗菴を去つた。其時檀越の一人宗顯と、偶然途中に邂逅した。宗顯は其消息を聞いたので、
大林は之に胸中の苦腦を告げた。宗顯は其住職就任を勸め、且つ諸徒を募緣して出世の資を補助した。依つて
大林は決心の臍を固め、【
大德寺出世】上洛して
大德寺に入り、(
泉州龍山二師遺藁、
大林和尚塔銘)天文五年二月綸旨を授けられ、(
後奈良天皇綸旨)其第九十世に瑞世した。(紫巖譜略)同十年本山の塔頭大仙院の西隣に裁
松軒を建てゝ之に住したが、間もなく堺に歸つた。天文十九年三月、【禪師號勅賜】天皇は宸翰を以て
佛印圓證禪師の號を下賜せられた。(
大林和尚禪師號宸翰)
三好長慶崇敬深く、弘治二年先考
元長の爲めに
南宗菴を改築し、巨刹を建て菴を改めて寺とし、【
南宗寺第一祖】
大林を請して其開山の第一祖となし、同三年五月には其晋山式並びに莊嚴なる供養が行はれた。永祿年中
松永久秀の夫人
勝善院殿仙溪宗壽の歿するや、其追福の爲めに山内に一院を建て
勝善院といひ、
大林を其開山とした。長慶の諸弟、
三好實休、十河一存、
安宅冬康及び其一族、英俊の士多くは
大林の道風を欽仰し、江湖の道俗亦之を恭敬し、參禪道を問ふもの頗る多かつた。
阿佐井野宗瑞、
武野紹鷗、同
信久、同爲久、
津田宗及、
北向道陳、
谷宗臨等は其主なるものであつた。【
大林と
三好長慶】流石の
三好長慶の如き一世の英傑も、其辛辣なる機用に接しては、戰栗して流汗膚を沾したほどで、南宗の四邊を過ぐるときは、必らず下乘したといふことである。永祿二年九月、【國師號勅賜】
正親町天皇重ねて
正覺普通國師の徽號を賜はつた。永祿七年七月長慶歿し、其三囘忌に當る同九年には、七月十三日から三七日間、其嗣子義繼施主の下に當寺の道場に於て、修法誦經、法華妙典頓寫等の供養が行はれた。
大林晚年に至り側室に扁して之を呼枕と稱し、同十一年正月病んで遷化した。世壽八十九、法臘七十三。遺骸を寺内に收め、塔を建てゝ曹溪と稱した。多くの門弟中嗣法のものは、纔に
笑嶺宗訢と惟清宗泉首座の二人のみであつた。(
泉州龍山二師遺藁、
大林和尚塔銘)然も、【祖塔銘文】其祖塔の銘文は
大林の遷化後に至つて猶ほ久しく成らなかつたが、
武野紹鷗の嫡孫宗朝、資を投じて南禪寺の僧錄司冣嶽元良の撰文、前禪興寺竺隱宗五の書、天龍寺の補中等修の篆額を請ひ、承應二年十二月成就した。(
大林和尚塔銘)
第十四圖版 大林木像
第十五圖版 古岳偈文
第十六圖版 大林偈文