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(四一)大林宗套

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 宗套、字は大林。【古嶽の法嗣】古嶽宗亘の法嗣である。京都の人、俗姓藤原氏、搢紳の家に出でた。幼にして天龍寺の天源院に入り、業を肅元禪師に受けて暍食となり、諱を壽桃、字を惟春と稱した。容姿閑麗亦文才あり、早くより名聲を博した。十七歳剃髮得度して、經藏を司どり、專ら翰墨を事とし、後笈を負ふて東西の諸名宿を敲き、修養すること多年に及んだ。【五山宗風の墮落】當時五山の宗風は、教外別傳の本旨を逸し、詞章の末に奔つて自ら高しとした。宗套此弊を破らんとし大德寺東溪宗牧に就き、其歿後は玉英宗冏に隨ひ、【古嶽參究】更らに古嶽宗亘に參禪した。古嶽が堺南宗菴主となつてからは、共に從ふて起居し、大永五年五月古嶽が宗安禪人の入室勘辨に際して侍者となり、古嶽が南泉猫兒を斬るの話を擧げ、其問答の答に、心機相通じ、卽ち印可を與へられ、(泉州龍山二師遺藁大林和尚塔銘)【名を宗套と改む】翌六年九月從來宗桃と稱した諱を宗套に改め(古嶽和尚筆宗套名取狀)享祿五年七月大林の號を授與せられた。(古嶽和尚筆大林號偈)然も未だ幾何ならざるに出でて大德禪寺に住し、古嶽の法嗣で同門の法兄傳庵宗器が、天文二年三月南宗菴に示寂し、(泉州龍山二師遺藁、紫巖譜略)菴主を置くに及び、【南宗菴主】大林師命によつて同菴主となつた。是に於て宗門大に振起し、法燈の餘焔復其光を增した。古嶽大林大德寺出世を勸めたが、大林は時未だ到らざるを理由として再三之を辭退した。四年古嶽は書を大林に寄せて、猶ほ吾が命を肯かないならば永く師弟の義を絶つて、吾が法屬たることを除かんと強ふるに及び、止むを得ず一笠一杖僅かの荷物を肩にして遂に南宗菴を去つた。其時檀越の一人宗顯と、偶然途中に邂逅した。宗顯は其消息を聞いたので、大林は之に胸中の苦腦を告げた。宗顯は其住職就任を勸め、且つ諸徒を募緣して出世の資を補助した。依つて大林は決心の臍を固め、【大德寺出世】上洛して大德寺に入り、(泉州龍山二師遺藁大林和尚塔銘)天文五年二月綸旨を授けられ、(後奈良天皇綸旨)其第九十世に瑞世した。(紫巖譜略)同十年本山の塔頭大仙院の西隣に裁松軒を建てゝ之に住したが、間もなく堺に歸つた。天文十九年三月、【禪師號勅賜】天皇は宸翰を以て佛印圓證禪師の號を下賜せられた。(大林和尚禪師號宸翰)三好長慶崇敬深く、弘治二年先考元長の爲めに南宗菴を改築し、巨刹を建て菴を改めて寺とし、【南宗寺第一祖】大林を請して其開山の第一祖となし、同三年五月には其晋山式並びに莊嚴なる供養が行はれた。永祿年中松永久秀の夫人勝善院殿仙溪宗壽の歿するや、其追福の爲めに山内に一院を建て勝善院といひ、大林を其開山とした。長慶の諸弟、三好實休、十河一存、安宅冬康及び其一族、英俊の士多くは大林の道風を欽仰し、江湖の道俗亦之を恭敬し、參禪道を問ふもの頗る多かつた。阿佐井野宗瑞武野紹鷗、同信久、同爲久、津田宗及北向道陳谷宗臨等は其主なるものであつた。【大林三好長慶】流石の三好長慶の如き一世の英傑も、其辛辣なる機用に接しては、戰栗して流汗膚を沾したほどで、南宗の四邊を過ぐるときは、必らず下乘したといふことである。永祿二年九月、【國師號勅賜】正親町天皇重ねて正覺普通國師の徽號を賜はつた。永祿七年七月長慶歿し、其三囘忌に當る同九年には、七月十三日から三七日間、其嗣子義繼施主の下に當寺の道場に於て、修法誦經、法華妙典頓寫等の供養が行はれた。大林晚年に至り側室に扁して之を呼枕と稱し、同十一年正月病んで遷化した。世壽八十九、法臘七十三。遺骸を寺内に收め、塔を建てゝ曹溪と稱した。多くの門弟中嗣法のものは、纔に笑嶺宗訢と惟清宗泉首座の二人のみであつた。(泉州龍山二師遺藁大林和尚塔銘)然も、【祖塔銘文】其祖塔の銘文は大林の遷化後に至つて猶ほ久しく成らなかつたが、武野紹鷗の嫡孫宗朝、資を投じて南禪寺の僧錄司冣嶽元良の撰文、前禪興寺竺隱宗五の書、天龍寺の補中等修の篆額を請ひ、承應二年十二月成就した。(大林和尚塔銘)

第十四圖版 大林木像

 
 

第十五圖版 古岳偈文

 
 

第十六圖版 大林偈文