札幌市内で縄文中期の資料が検出された遺跡は、現在わかっているかぎりでも九三カ所ある。この数は、市内で時期が判明している遺跡総数(二〇九カ所)の約半数近く(四五パーセント)に達する。特に、現在の石狩湾から五、六キロ内陸にある紅葉山砂丘(もみじやまさきゅう)、それに市内東部の野幌丘陵、月寒丘陵(台地)などと呼ばれる月寒川、厚別川などで解析された火山灰性丘陵地帯に集中している。細かくみると、紅葉山砂丘上の札幌市域ではその西端の手稲前田の標高四~六メートル付近に、石狩町内では樽川(たるかわ)六線より北東部の石狩川の旧河道(茨戸湖)の両側に比較的長期間営まれた規模の大きい遺跡が多くある。発寒川扇状地では、中の川流域の発寒(標高約一〇~二〇メートル)、追分川流域の手稲宮の沢(標高約一五~四〇メートル)付近にあり、発寒川沿いでも標高七〇~八〇メートル付近に若干の遺跡がみつかっている。しかし、札幌扇状地では、札幌面・中の島面・平岸面いずれからも、今のところこの時期の確実な遺跡は検出されていない。両扇状地の出土遺物の時期でみると、発寒川扇状地の方はすでに縄文前期頃には安定していたと考えられるが、札幌扇状地は縄文時代の遺跡はほとんど認められず、続縄文時代中葉から擦文時代になって若干の遺跡が検出される程度である。このことから、札幌扇状地は豊平川が頻繁に氾濫を繰り返し、長い間不安定な土地であったと推測される。
一方、月寒台地に入ると望月寒川流域の白石区平和通・本通(標高二〇メートル付近)、平岸・月寒西(標高四〇~九〇メートル)、西岡(標高七〇~一二〇メートル)、月寒川流域では北郷・平和通・本通・本郷通(標高一〇~二〇メートル付近)、南郷通・栄通・月寒東(標高三〇~四〇メートル)、西岡(標高九〇~一五〇メートル)、月寒川の支流のラウネナイ川沿いの月寒東・羊ヶ丘(標高四〇~七〇メートル)、吉田川沿いの北野・月寒東(標高三〇~五〇メートル)などに分布する。野幌丘陵では、厚別川の支流沿いの大谷地(標高二〇~三〇メートル)、平岡・清田・真栄(標高五〇~七〇メートル)、厚別川と野津幌川にはさまれた厚別南・厚別町上野幌(標高三〇~五〇メートル)、野津幌川の支流沿いの厚別町上野幌・厚別東(標高二〇~五〇メートル)などに遺跡が濃く分布する。
これらの火山灰性丘陵地帯の遺跡については、遺跡総数が多い割には、長期間居住したと考えられる例は少なく、一般的には短期間しか生活していない小規模の遺跡が多い。このことから、この地区においては生産性が低かったこともあって、一地域での居住期間は短く、転地を繁雑におこなっていたものと考えられる。なお、本地区においては「陥し穴(おとしあな)」と考えられる溝状の遺構が数多く検出されるということも大きな特徴である。
また、豊平川に流れ込む藻岩山山麓の北の沢・中の沢・南の沢流域(標高八〇~二〇〇メートル程)、豊平川上流部の真駒内・川沿(標高七〇~一〇〇メートル付近)、穴の沢川流域の石山(標高一一〇~一五〇メートル)、藤野(標高一八〇~二二〇メートル)などの山岳地帯でも点々とこの時期の遺跡がみつかっている。