このシャクシャインの和人襲撃の檄(げき)に答えて、寛文九年(一六六五)六月、東はシラヌカ、西はマシケに至るアイヌの多くは、一斉に蜂起し、蝦夷地にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待、金掘を殺戮し、東西蝦夷地で相果てた人数は『津軽一統志』(青森県叢書)の記すところは左のようであった。
一 | 当度、松前より下口へ参り候。舟々松前の鷹船一艘シコツト申所にて打殺申候由、当六月廿二日松前へ申来候。右鷹船の鷹師吉兵衛上下弐人、善兵衛上下弐人、船頭水主八人、都合十弐人。 |
一 | シラヲイにて九人 |
一 | 三石にて十人 |
一 | ホロヘツにて弐拾人此外鷹師上下三人 |
一 | ホロイツ〔ミ〕にて拾壱人 |
一 | トカチにて拾七人 此外鷹師上下三人 |
一 | ヲンヘツにて拾五人 |
一 | シラン(ヌ)カにて拾参人 |
鷹師金掘之者百人余、都合弐百拾弐人相果候事 | |
(中略) 上の国にて殺れ候人数の覚 | |
一 | ヲタスツにて弐人 |
一 | イソヤにて弐拾人 |
一 | シリフカにて三拾人 |
一 | 与市ニテ四拾三人 |
一 | ヘ(フ)ルヒラにて拾八人 |
一 | シクツシにて七人 |
一 | マシケにて弐拾三人 |
都合百四十三人相果る |
なお『蝦夷蜂起』によれば、殺された人々は、西蝦夷地では一二〇人のうち、他国者八二人、松前者三八人、東蝦夷地では一五三人のうち、他国者一一六人、松前者三七人とある。
シャクシャインの檄に応じて、東西の蝦夷が商船などを襲撃して和人を殺害した底意は、寛文十年(一六七〇)しりふか(岩内)の大将カンニシコルが弘前(津軽)藩士に語ったところによると、
去年拙者共人殺し申子細は、前々志摩様御代には、米弐斗入之大俵にて、干鮭五束(一束は二〇本)宛御取替被成候。近年蔵人仕置に罷成、米七、八升入にて干鮭五束宛に御取替被成候得共、蝦夷共儀に候得は、不及是非其通に差上申候。余り迷惑に存近年は度々御訴訟申上候得共、年寄たる蝦夷共我儘申候間、どくの酒にて年寄蝦夷之分御たやし、若蝦夷斗に可被成御相談にて、はし/\にて右之酒にて相果候由、及承しりふかの蝦夷共気遣に存、御酒も不申受、迚もケ様に御たくみ被成候ては、末/\御たやし可被成と存候処、下之国にて毒之酒にてあまた相果候由承、然らばしやくしや犬も商舟殺申由承、上之国にても迚ものかれぬ事と存、しやも船殺申候。御慈悲さへ御座候はゞ何しに此方より左様之儀可仕候や、此段高岡之殿様え御披露被下度由申候。
なお続けて話すには、
近年は蝦夷あち商に松前より御越候間、拙者取候川にて大あみおろし、鮭すきと御取、上方え商に御越成候に付、左様被成候ては蝦夷共取申鮭無御座候。偈(ママ)死申候間、拙者共にとらせ御買被下度由、衆之御訴訟申上候得は、松前之知行所にては聞取申に我儘申とて御うちたたき、其迄にて少も拙者共取申鮭やすく御買被成候得は、何共迷惑仕候。ケ様之事付て蝦夷共一揆を発申候。
(津軽一統志 青森県叢書)
西のアイヌがシャクシャインの檄に呼応した理由は右の語で明らかである。