「しやつほろ」場所夏商を手に入れた阿部屋は、飛驒屋が安永四年(一七七五)、前述したような経緯で手に入れたソウヤ場所の下請を行うにいたった。しかも、下請を行うに際し、藩と飛驒屋との契約では一九〇両(貸金の引当にとっているので、実際上の飛驒屋からの上納はない)のところ、阿部屋は二八五両を飛驒屋に上納することにしたので、かなり上乗せしてソウヤ場所の経営権を手に入れたことになる。
天明年代(一七八一~八八)以後の阿部屋は、寛政八年(一七九六)に没落するまで、破竹の勢いで豪商に急成長し、福山城下での商人としての信望も厚くしていった。
それと同時に、イシカリ十三場所内における場所数も増加、天明六年には、「モマフシ」(ナイホウ)、「ナイホウ」(上サッポロ)、「チイカルシ」(シノロ)の三場所を持ち、運上金合計は七五両であった。この年の十三場所の夏商運上金合計が三一六両であるから約四分の一をしめたことになる。このほかにも、ニイカップ、サル、マシケ、ハママシケ、アツタがあり、請負場所は計八場所にのぼった。
それゆえに、天明八年、幕府巡見使一行として福山に渡った古川古松軒は、「松前中第一の豪商」として「油屋(阿部屋)伝兵衛」の名を掲げ、千石積の船一〇艘を所持し、ソウヤ交易をしていると、その著『東遊雑記』に記している。
寛政元年(一七八九)にクナシリ、メナシ地方でおこったアイヌの蜂起事件は、飛驒屋の請負っていた場所支配を取りあげ、松前藩の直捌方式にあらためたものの、内実は阿部屋の支配としたので、阿部屋の権益は一層増大した。それに加えて、同二年、松前藩のカラフト調査が行われ、翌年には場所も開設され、阿部屋が「場所稼人」として場所経営にも参加、さらにシャリ場所の経営にも携わった。
こうして、阿部屋は、表6にあげた『西蝦夷地分間』(天明末~寛政初年)段階では、イシカリ十三場所のうち、上サッポロ、「ツフカルイシ」(シノロ)、下サッポロの三場所を持ち、運上金では合計五一二両のうち一〇七両というように、約五分の一をしめていた。このほか、西蝦夷地では、マシケ、アツタ、オタルナイが、東蝦夷地では、サル、ニイカップをはじめ一一場所、それに藩直営場所の差配人としてのソウヤ、シャリ、「場所稼人」としてのカラフトもあった。イシカリ十三場所内でしめる権益は、そう大きくはないが、藩主直領の場所経営、大網を導入しての大規模経営など、飛驒屋没落後ますます権益を拡大し、「一歳の得る所其の利惣計六万両なり」(地北寓談)と伝えられるほどであった。
しかし最盛期を誇った阿部屋も、寛政八年(一七九六)、突如その地位を失うこととなる。同年ソウヤ、シャリ、カラフトをはじめ、阿部屋の支配場所全部が引き上げられ、闕所・居所払に処せられたからである(石狩場所請負人村山家記録 道図)。
このような阿部屋に対する扱いは、前藩主道広の恣意的な措置として伝えられている。一説には、大坂の商人が、道広の妾の兄板垣豊四郎と結んで道広にとり入り、阿部屋差配の良場所を獲得するために謀計をめぐらした(地北寓談)といわれている。また、阿部屋の隆盛から没落にいたる経過を、封建権力と結ぶ特権商人が、強権を背景に、労働力を確保し、産物の増大のために自ら禁令を犯すことも可能としたことの結果であり、阿部屋の大繁盛の過程には、その没落のあり方もくみこまれていたとみる見方もある(松前町史 通説編第一巻上)。
しかし、東蝦夷地直轄化の動きが、阿部屋を再興させた。蝦夷地の「按内」に阿部屋の起用が必要となったからである。このため、同十一年には、「いしかり秋味」ほか、ソウヤ、シャリ、カラフトなどが「御手支配」となった。さらに「一代侍」に遇されるなど、阿部屋は、藩直営のイシカリ秋味の請負人として、再びイシカリと関わりを持つにいたった(村山家資料 道開)。