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『土人由来記』

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 寛政十一年(一七九九)、東蝦夷地が幕府の仮直轄となったため、それまでイシカリ十三場所内のアイヌ東蝦夷地となった地域に持っていた漁業権が侵害されるといった紛争がたまたまおきてくる。これが、いわゆるイザリ・ムイザリ漁業権紛争である。この紛争を契機に、皮肉にもアイヌの漁業権の慣習と、場所支配の幕府側の論理とが衝突し合う結果となる(顚末は表4参照)。
 この紛争は、寛政十二年に勃発し、文政四年(一八二一)の松前藩の復領まで、あしかけ二〇年にわたって争われた訴訟事件であった。この事件の顚末については、当時ユウフツ会所(東蝦夷地の仮直轄を機に運上屋会所と改めた)の請負人を務めていた山田文右衛門(東蝦夷地の場合、直轄後場所請負人を廃し、復活したのが文化十年であるので、その後のことを指すか)が、事件の顚末を後世に伝えるため、ユウフツ会所の文書から書き写しておいたと伝えられる『土人由来記』(以下『由来記』と略記)、別名『ユウフツ・イシカリ論所一件』に詳しい。

写真-4 「土人由来記」表紙と本文(道立文書館蔵)

 『由来記』によれば、「ユウハリは、往古より千年川領にて、同川筋イヘツフト迄の間、左右小川野山共千年土人共自由ニ俳徊致し候」とあって、千歳(文化二年、幕府がシコツを改め千歳とした)川流域のエベツブト付近までというから、ユウバリ川流域を含んだ地域が千歳アイヌの生活圏になっており、イシカリ川筋のアイヌとは明らかに生活圏を異にしていたことになる(図1参照)。

図-1 イザリ・ムイザリ漁業権紛争関係図
明治29年5万分の1地形図上に地名・川名を入れた。

 ではどうして、千歳アイヌとイシカリ川筋のアイヌとが接触を持つようになったのだろうか。同じ『由来記』の「イサリムイサリ土人由来之事」という項に、サル川筋のアイヌで山猟が乏しくなったためにムイザリに移って来た者の子孫が、オサツの者と縁組して千歳アイヌの仲間に入ったという話がある。この者たちは、故郷のサル沿岸で引網を作って漁をすることを知っていたので、イシカリ川筋の者たちへ引網を教えることとなったらしい。同じ史料に、「右網ハ元来ユウフツより相初り候事故、イシカリ土人共方にて聊故障無之、勿論イヘツフトより川上之千歳川筋之儀は、旧来千年川領にて、土人共差してシコツ土人と相唱来候由、春先より夏分迄は、イシカリ大川通ニて小網引立飯料魚漁事致し来、秋ニ至り候得は、小川々々へ登りを取ルニシコツへ参り、小川々々之鮭漁いたし、互ニ睦敷相凌居候」とあるのがそれである。もともとサル系に属する千歳アイヌ西蝦夷地系に属するイシカリアイヌとは、交流の便宜から互いに譲り合っており、千歳アイヌは春夏の季節には引網をもってイシカリ川本流まで行き、秋になると千歳へ戻って川々でをとるなど、互いに友好関係を保っていた。
 この千歳川流域は、イシカリ川の支流でありながら、シコツ十六場所(ロウサン、下ママツ、上ムカワ、下ムカワ、下アツマ、アツウシ、イサリ、ムイサリ、オサツ、中アツマ、オセツコ、マス、ホタンナイ、チイカエ、タルマエ、上ママツ)と呼ばれ、各知行所に分かれ、ユウフツが産物の集荷地となっていた。しかしこれは、いわゆる行政上の分け方であって、知行主は、交易相手が一定しているだけで、その相手が一定の生活圏もしくは漁猟圏(イオル)を越えて生産手段を持つことには一切干渉しなかったので、千歳アイヌとイシカリ川流域のアイヌとのこのような入会漁業は、さして珍しいことではなく、慣習として行われていたらしい。