イシカリ川を下った近藤重蔵は、復命書にあたる蝦夷地取調書を見る限りイシカリ付近の奥深く調査したらしいが、詳細についてはわからない。ともかくシコツ越えしてユウフツに出、その年の十二月八日に江戸に帰着している。すぐさま十二月十五日には将軍家斉に謁見、蝦夷地取調書と地図を献上した。
その取調書が、蝦夷地処置を具申した『総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』である。この書付は、近藤重蔵が西蝦夷地見回り中にイシカリから、あるいはソウヤから遠山景晋宛に書き送った用状のなかでも触れているが、イシカリの将来を見通した、いわゆる「イシカリ要害論」であった。その内容を次に紹介してみよう。
①イシカリ川について
イシカリ川は総蝦夷地(この場合東西蝦夷地の意か)の中央にあり、かつ第一の大河であると認識している。そしてしかもその支流といえば、ユウフツ川、トカチ川、モンベツ川、ソウヤ川、テシオ川、マシケ川、ルルモッペ川と連なって、四方への交通の要となっているとみる。
②イシカリ場所について
イシカリ場所が「蝦夷地第一ノ都会ノ地」であるといったように聞いている。その理由として、方々からアイヌが移り住んでいるのは、秋味が豊富であるゆえに秋味漁に来てそのまま永住したものが多くいたり、秋味漁も他場所と異なり、「自分網器」(手作りの自己所有の網)を所持し、組合を作って漁事を行い、船方とも相対交易ができる点などをあげている。
③イシカリ要害候補地
外寇の不慮の備えとして「中土ヲ一ケ所御要害ノ地」と定めるがよかろうと説く。その「中土」とは、「沃腴ノ地多ク風モ薄ク寒モ暖ニテ則本邦中土農民同様ノ境界」であり、「中土」より四方へ道路を開き、前後左右を控制援助できる形勢になっていることが条件であると認識する。そうみてきて、「イシカリ筋第一ノ要枢雄鎮ノ地」であるとみ、次の三カ所を候補地として掲げている。
第一には、イシカリ川筋カバト山。ここは、「西北ヲ大山ニテ包ミ、又東南ヘ大川ヲ受ケ、是迄越年小屋モ有之、奥地ヘモ不遠候テユウハリヨリユウブツ辺モ便路宜敷、同所迄ハイシカリ川口ヨリ上リ船凡三日路、下リ船ハ二日路モ相可申」と、『蝦夷地絵図』の「擁護ノ地」よりははるか下流ではあるが、イシカリ川中流のカバト山付近を候補地にしている。
第二には、タカシマならびにオタルナイの奥。ここは、「其間僅一里許リニテ、テミヤト申西蝦夷地第一の上湊有之。西海往来ノ船ニハ毎度此処ヘ日和待仕四季トモ荒蕪之廻船冬分浮囲相成」るところで、かつ鯡とりのものが季節になると集まってきてその人数も二〇〇〇有余人、おまけにイシカリ十三場所のアイヌも集まってくるので、非常の節には役に立つであろうと、その人的資源に目を向けている。さらに、タカシマ山中には良材も多いし、湊はつねに澗繫の場となって越年する者も多いので、当座はタカシマ、オタルナイの奥一、二里のところへ陣屋を設置するがよかろうと説いている。
第三には、サッポロの西テンゴ山の辺。ここは、「イシカリ川口ヨリ凡一日路、ウス、アブタヨリ凡三日路、是ハ口地モ四方へ出張候ニハ可宣候ヘドモ、一体地所狭キ様ニ相聞へ申候」という具合である。この「テンゴ山」に相当する山がどこの山であるか比定するのは困難であるが、サッポロの西とはっきり言っていることからおそらくサッポロ周辺のオタルナイとの間にある山のことだろうか。
近藤重蔵は、以上三つの候補地を掲げ、ゆくゆく陣屋を取建て、役人を配置するに違いないが、よく見分して決めるがよかろうと述べる。さらに、ユウバリ山の辺はいかがであろうかとも提案している。
書付には、このほか「国地経略ノ本ハ穀物出来候ト道路開ケ候ト此二ツ尤先務」といったごとく、蝦夷地の農業開拓および道路開削意見、また、箱館・江差は異国船来冦の場合不適であるので、箱館の野崎へ築城するがよかろうといった意見、蝦夷地内に陣屋取建ての適地として、西北はタカシマ、ソウヤ、カラフト、東北はアバシリ、アッケシ、ネモロ、クナシリ、エトロフをあげ、勤番所の候補地をもあげている。
以上が、寛政十年以来文化四年にいたるまで蝦夷地のことに関わった近藤重蔵の、防衛上からみたイシカリ要害論であり、かつ蝦夷地開拓論である。寛政九年に幕府に提出した『蝦夷地絵図』の段階と比較しても、机上で「擁護ノ地」を設定したのと異なる。イシカリの将来を見越した、またイシカリ場所の漁業資源とそこに集まる人的資源に着目した防衛論が前面に出るあまり、開墾適地としてのイシカリ開拓論はむしろ影をひそめてしまっている。これは、寛政九年から文化四年までの間の蝦夷地の情勢の変化、たとえば蝦夷地の直轄やロシア船によるカラフト・千島襲撃事件などともからむのかもしれない。
しかし、この要害論は、これ以後蝦夷地開拓論あるいは「建府論」が叫ばれる度ごとに、基礎理論となったことも確かである。