また、警備においては、幕府直轄時代の防備体制を一応踏襲している。ただし、西蝦夷地は幕府直轄時には、勤番所が五カ所あったが、今回はイシカリ・ソウヤ・カラフトの三カ所に減り、東蝦夷地のそれは、五カ所あったのに対し八カ所、海防を主とするエトモの詰合を加えると九カ所におよぶという具合に強化された。
この勤番所には、物頭あるいは頭役以下を派遣し、年々交代とし、警備と行政監督をも任務とした。勤番に赴く藩士たちには、「蝦夷地勤番之者共心得向」を達して、異国船の対応をはじめ、アイヌの服従、産物の増産、人足調達についての注意、冬期中における勤番の武術稽古、山丹交易、抜荷の見張り等にいたるまで、項目は二十数カ条におよんだ。そのなかには、「勤番は当国第一之重任候間決て油断なく心付候事ハ伺可申候」と、その重要性を説いた(蝦夷地勤番之者心得向 道文)。
写真-1 蝦夷地勤番之者心得向(道立文書館蔵)
勤番人数は、文政四年当時蝦夷地全体で一六〇人がおり、そのうちイシカリには九人のほかに在住足軽が詰めていた。天保九年(一八三八)の『蝦夷情実』(函図)によれば、イシカリ、ソウヤ、カラフトの西蝦夷地の勤番人数は四二人、そのうちイシカリには重役上下三人、徒士上下二人、医師上下二人、足軽四人の計一一人が詰めていた。
その後、勤番人数はさらに増員され、天保十四年には蝦夷地全体で二〇二人にのぼり、弘化三年(一八四六)のイシカリの場合、重役と徒士一人、医師一人、それにそれぞれの家来が一、二人とほかに足軽六人が詰めていた。しかも弘化三年当時の勤番手当は、重役が一二〇両、徒士が八五~八六両、医師が一〇〇両で、足軽のうち四人は秋味漁がすみ次第引き揚げるが、残り一人はオタスツで、また一人がイシカリで越年したらしい。越年手当も、オタスツが一六〇~一七〇両くらい、イシカリが五五~六〇両くらいと決まっており、イシカリ勤番所には、備筒、備米の用意がなされていた(松浦武四郎 再航蝦夷日誌)。
このような松前藩士による勤番は、安政二年(一八五五)に幕府直轄となるまで継続され、安政二年のイシカリ勤番として頭役酒井尉右衛門、徒士八百田綱右衛門、医師田中元栄、それに足軽七人が詰めていたことがわかっている(松前箱館雑記三 東大史)。おそらく最後のイシカリ勤番であろう。この足軽というのは、いわゆる足軽ではなく、場所請負人が派遣している番人に必要に応じて帯刀させ、足軽に登用したものを指し、在住足軽といっていた。