図-1 イシカリ持場所(○印)
イシカリが詰場所に選定されたのは、安政二年十一月に出された箱館奉行への伺いによると、次のような認識にもとづいていた。
一 | イシカリ詰 [持場シヤコタン領よりマシケ領迄]右之場所大船繫泊宜、殊ニ追々在住之もの同所御警衛被仰付候積、其上東地ユウフツより千とせ越いたし候者、同所へ相かかり候ニ付、旁イシカリへ為相詰、持場内取締為致候積り (幕末外国関係文書 一三) |
これによるとイシカリは、(1)大船繫泊(けいはく)の良港地、(2)在住の入る開発地、(3)千歳越の交通上の要衝地、以上の三点の理由により詰地として選定されたのであった。この三点は、明治以降の札幌の発展の因由であることは勿論としても、安政年間以降、幕末にかけての石狩・札幌地域の発展のもとになる、非常に重要なる因由でもあった。
先の伺いにすでに名前が出ている水野一郎右衛門が、最初のイシカリ詰の調役として正式に任命されたのは、翌安政三年一月二十八日であった。「東西蝦夷地場所詰正月廿八日被仰付候公辺御役方面附写」(松前箱館雑記 巻五)によると、イシカリ・アツタ詰は以下の顔ぶれであった。
調役並出役となった水野一(市)郎右衛門は、もと西ノ丸定介御賄吟味役であった。立石元三郎は御持頭多賀兵庫助組同心で、広田八十五郎は松前藩士であった。元三郎は三月十七日、八十五郎は二十一日に箱館を出発した(箱館御用后例要録 函館市史 史料編第一巻)。松浦武四郎は、五月七日にイシカリで彼らに会っている(『簡約松浦武四郎自伝』、以下『武四郎自伝』と略記)。この時武四郎は、松前藩との引継に廻浦していた箱館奉行組頭の向山源太夫と同道しており、源太夫は八日も「御用引渡有て滞留のよし」とされており、この前後にイシカリ場所の引継がおこなわれていたことがわかる。