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イシカリの詰役

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 安政二年(一八五五)に蝦夷地の第二次直轄が実施されるに及び、箱館奉行では松前藩の在勤制度にならい、各場所に調役以下の詰役を派遣し、統轄することにした。その際、蝦夷地及びクナシリ・カラフトなど一〇カ所を持場割に定め、そこに調役(調役調役並、調役並出役)を任命し持場割の最高責任者とした。日本海沿岸の西蝦夷地は、はじめスッツ・イシカリ・ルルモッヘ(留萌)の三カ所の持場(詰)割とされた(後にソウヤが追加される)。そのうちイシカリは当初シャコタン、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、オショロ、タカシマ、オタルナイ、イシカリ、アツタ、以上の九場所を管轄し、イシカリが調役の駐在する詰場所とされた。ただしシャコタンは、三年に除外されスッツ詰の持場割とされる。

図-1 イシカリ持場所(印)

 イシカリが詰場所に選定されたのは、安政二年十一月に出された箱館奉行への伺いによると、次のような認識にもとづいていた。
 イシカリ詰 [持場シヤコタン領よりマシケ領迄]

水野一郎右衛門

右之場所大船繫泊宜、殊ニ追々在住之もの同所御警衛被仰付候積、其上東地ユウフツより千とせ越いたし候者、同所へ相かかり候ニ付、旁イシカリへ為相詰、持場内取締為致候積り

(幕末外国関係文書 一三)


 これによるとイシカリは、(1)大船繫泊(けいはく)の良港地、(2)在住の入る開発地、(3)千歳越の交通上の要衝地、以上の三点の理由により詰地として選定されたのであった。この三点は、明治以降の札幌の発展の因由であることは勿論としても、安政年間以降、幕末にかけての石狩・札幌地域の発展のもとになる、非常に重要なる因由でもあった。
 先の伺いにすでに名前が出ている水野一郎右衛門が、最初のイシカリ詰の調役として正式に任命されたのは、翌安政三年一月二十八日であった。「東西蝦夷地場所詰正月廿八日被仰付候公辺御役方面附写」(松前箱館雑記 巻五)によると、イシカリ・アツタ詰は以下の顔ぶれであった。
調役並出役 水野一郎左(右)衛門
下役出役  立石元三郎
同心    広田八十五郎
足軽    吉沢佐一郎 久保欣吾

 調役並出役となった水野一(市)郎右衛門は、もと西ノ丸定介御賄吟味役であった。立石元三郎は御持頭多賀兵庫助組同心で、広田八十五郎松前藩士であった。元三郎は三月十七日、八十五郎は二十一日に箱館を出発した(箱館御用后例要録 函館市史 史料編第一巻)。松浦武四郎は、五月七日にイシカリで彼らに会っている(『簡約松浦武四郎自伝』、以下『武四郎自伝』と略記)。この時武四郎は、松前藩との引継に廻浦していた箱館奉行組頭の向山源太夫と同道しており、源太夫は八日も「御用引渡有て滞留のよし」とされており、この前後にイシカリ場所の引継がおこなわれていたことがわかる。