① | 材木は発寒・小樽内より伐り出したり。亀谷は四年間、発寒山中に勤番せり。材木は亀谷の伐り出したるなり。 |
② | 当時材木の価は、百石に付金十三両弐拾匁なり。 |
③ | 発寒川より(ママ)茨戸より石狩川を下る。当時は発寒川の舟行便利にして、今日の如く埋りて不便にあらず。 |
④ | オベツカウシ(発寒)にも勤番所あり。亀谷丑太郎在勤して此辺の地方を統治し、一切の事柄を石狩に通報せり。亀谷氏此処に在勤するは四年間なり。亀谷の妻を「なつ」といふ。共に此処に居たりといふ。 |
⑤ | 亀谷は下駄をはきて熊狩し、常に熊・狼・鷲等を打ち取りたり。其皮は石狩へ送りたりといふ。 |
以上の五項目の関連事項からみると、ハッサム番所はまずオベツカウシ(現在の西野東部)に所在していた。この番所の役割は、第一に材木の伐り出しにあった。当時、イシカリでは出稼人・職人・商人も増え、家作がさかんとなっており、建築材にあてられたと思われる。材木はハッサム・イシカリ川を流送しておこなわれていた。第二に、熊・狼・鷲皮等の軽物交易物の収集であった。軽物類は本来、アイヌとの交易でなされていた。しかし、ハッサム近在にはアイヌも少なく、またこの時期には軽物交易物も減少していた。そのために、足軽の丑太郎自身が獣皮の捕獲につとめていたのであった。獣皮は衣服・敷物に利用され、和人に珍重されたほか、カラフト交易にもあてられていた。軽物はもともと、運上屋のみの交易では不足であったので、番人が番屋に越年して捕獲と収集にあたることも多かった。足軽も番人の役割をひきついだのである。吉田茂八が丑太郎のもとにいたのも、軽物の捕獲と関係をもつ(第五章参照)。軽物交易物の収集は冬季間になされるが、これにより丑太郎は冬季も番所につめていたことがわかる。しかも、夫人を伴っての駐在であった。第三に、これは関連事項にはあらわれないが、ハッサム番所の役割には、ハッサム在住の世話があったとみてよい。また第四には、サッポロ越新道の管理・取締りもあったと思われる。さらに第五には、アイヌの「撫育」もあり、ハッサム・サッポロ・ツイシカリのアイヌが管轄範囲で、人別帳もここを単位にまとめられた(第六章参照)。第六に、幕末には札幌市域の諸河川は、種川として鮭の産卵の保護がとられたらしく、この取締りにもあたったようである。ハッサム詰の森下梅吉は慶応四(明治元)年十月十三日に、大友亀太郎(織之助)へ農夫が鮭を捕獲することに、注意をうながしている(市史五〇八頁)。
以上のようにみてくると、番所の役割は、おかれた場所・地域の条件により、それぞれ異なっていたことがわかる。しかし、その本質的な役割は、イシカリ役所の出先機関として、各担当区域内の取締・支配をなすことにあった。
ハッサム番所は、おそらく安政五年に設置されたのであるが、先の「書付」にはサッポロ番所の設置、及び亀谷丑太郎の派遣が記されていた。しかし、サッポロ番所が漁時限りなので、丑太郎はサッポロ番所から詰切りのハッサム番所に変更になったと思われる。丑太郎は四年間勤務したというが、おそらくこれは、安政五年から文久元年頃までの間だろう。後任のうちの一人がさきの森下梅吉であろう。