早速蝦夷地の実検を試みようとしたが、蝦夷地への入地は松前藩の取締りが厳しく、そのため箱館に移り、ようやく世話によりネモロ場所の請負人和賀屋白鳥宇右衛門の手代として入地の機を得た。かくして弘化二年(一八四五)六月に箱館を発し、東蝦夷地の沿岸を巡ってネモロに至り、さらにシレトコ岬に達し、帰りはノシャップよりスイシャウ、シボツ、タラクの諸島を廻って、同年八月二十一日に箱館に着した。この東蝦夷地の実検は、『初航蝦夷日誌』としてまとめられている。
第二回目の蝦夷地踏査は、翌弘化三年(一八四六)に、今度は松前藩カラフト詰として赴任する医師西川春庵の下僕となって随行することとし、三月八日に松前を出立、西蝦夷地の海岸に沿ってソウヤに至り、渡海して北蝦夷地のマアヌイ、クシュンナイを巡ってソウヤに帰り、さらに西蝦夷地のモンベツ、シャリを経てシレトコ岬に達し、反転してソウヤからイシカリ、そこより内陸をたどってチトセ、ユウフツに出て、同年九月上旬に江差に帰着した。この西・北蝦夷地の踏査日誌が『再航蝦夷日誌』である。
第三回目の踏査は、嘉永二年(一八四九)閏四月十八日、クナシリ場所請負人柏屋藤野喜兵衛の持船長者丸に便乗して箱館を出発、東蝦夷地沿岸を巡行して、シコタン、クナシリ、エトロフの諸島を踏査し、同年六月十五日箱館に帰着した。この時の主として上記三島の踏査行をまとめたのが『三航蝦夷日誌』である。
第四回目は、安政三年(一八五六)であるが、この前年に蝦夷地は再度幕府直轄領となり、武四郎はその年十二月に箱館奉行所雇として幕吏につらなっていた。三月二十九日箱館奉行所支配組頭の向山源大夫の手付として箱館を出立、イシカリより石狩川をたどって内陸に入り、オモシロナイ(雨竜川口)を経てルルモッペに出てソウヤに至り、北蝦夷地へ渡海、シツカハタまで北上し、クシュンナイを廻ってソウヤにもどり、ここで一行の隊長である向山源大夫の病死にあうが、さらにシャリ、ネモロを巡って東蝦夷地海岸をたどり、大半を徒行して同年十月十三日箱館に帰った。この踏査行をまとめたものが『竹四郎廻浦日記』である。
第五回目の調査は、安政四年(一八五七)に実施され、四月二十九日箱館出立、オシャマンベよりスッツへ出てイシカリに至り、石狩川をさかのぼってチウベツブトより石狩川、忠別川、美瑛川の上流を、下って雨竜川、空知川の上流をそれぞれ探り、イシカリよりテシオに移って天塩川の上流を調べ、帰途イシカリよりシコツを経てタルマイ、ウス、さらに尻別川に出て下降し、スッツ、それからオシャマンベを通って同年八月二十七日箱館に帰着した。この踏査内容は『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』にまとめている。
最後の六回目の踏査行は、安政五年(一八五八)一月二十四日箱館を発し、ウスより内陸に入って洞爺湖を渡り、喜茂別川より中山峠付近を越えて豊平川に移り、トイヒラ、ゼニバコよりイシカリ、ついで石狩川を遡上して美瑛川から中央山脈を横断して十勝川を下りオホツナイ、クスリより北上して雌阿寒岳を経てシャリ、摩周・屈斜路の両湖を巡って再度クスリ、それよりノシャップ、シレトコ、ソウヤの岬を結んでイシカリへ、さらにユウフツへ抜けて日高の沿岸に注ぐ十数本の河川の川上を調査、十勝の原野を一周して東蝦夷地海岸をたどり、同年八月二十一日に箱館に帰着した。この大踏査行は『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』にまとめられた。