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弘前藩の関心

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 幕府が異国船渡来につき広く意見を求めると、仙台藩ではいち早く藩主をはじめ大槻磐渓らが建言書を呈する。これに対する弘前藩の反応は鈍く、家中へ再度幕府の趣旨を伝えるものの、上申者は容易にあらわれなかった。しかし、弘前藩の北地への関心は別の面できわめて強かったのである。
 同じ東北にあっても、海を隔て松前藩と向かい合う弘前藩の地理的条件にともなう人の日常的往来に目を向けなければならない。たとえば、イシカリ辺にたびたび来て、その事情に詳しくアイヌ語のわかる領民が津軽にはいた。安政元年堀・村垣一行が蝦夷地調査を行う際(第二章一節)、先発で弘前藩に着いた幕吏鈴木尚太郎は、蝦夷地の様子に通じアイヌ語のわかる人を、内々自分の家来として同行すべく、斡旋を藩に頼む。弘前藩はかなり迷うが、結局、浜田(名?)村の庄蔵、忠兵衛と宇鉄村の吉松を紹介する。彼らは「マシケ、石カリと申場処まで度々罷越、是辺の所は大略案内」(堀織部殿村垣与三郎殿松前蝦夷地え下向一件)することができたのである。
 弘前領民西蝦夷地往来はこれを例外としない。嘉永六年春は、今別、三厩、増川の三町村だけで一一二人の領民が、一人五升の米を背負って西蝦夷地鯡漁夫として出稼した。それを藩は翌年から禁止しようとする。領内の住人が減り、異国船が出没する津軽半島の警備がおろそかになるのを心配したからである。しかし郡奉行は、これら領民の生活が西蝦夷地への出稼をぬきにして成り立たぬと指摘、労賃は前金で受け取っているし「母衣月四ケ村幷小泊三ケ村蟹田十三町の儀は、何れも向地場所買切仕込金等借受候儀に付、只今御差留に相成候ては、不一通御扱相生可申」(弘前藩庁国元『日記』嘉永六年十二月七日条)という内情から、禁止案は撤回された。
 このように、第二次幕府直轄期をむかえた西蝦夷地は、弘前領民出稼なくして鯡漁が成り立たず、両地は経済的に一つの生活生産圏となっていく。したがってイシカリに詳しいアイヌ語を話す津軽人は、けっして特異な存在ではなかった。さらに漁夫にかぎらず、士分の者で松前での死亡記事が散見するから、両地の人の往来は密であったといえよう。
 出稼漁民をはじめ、多数の弘前領民の往来を受ける側の松前藩は、どう対応したであろうか。嘉永六年の事例からうかがうことにする。この年松前藩主は参勤交代で江戸から福山へ下向の途中弘前藩領を通過し、宿や船をはじめ一切の世話を領民に頼らざるをえなかった。次に世嗣問題がある。こうした松前藩の重要事項は重臣連名で弘前藩家老へ知らせることにしていた。平常時も夏と冬に塩数の子や干うどんを三厩詰の弘前藩勘定小頭に届け挨拶を欠かさないことを先例とした。漁業出稼や米のほか多くの生活物資を津軽に求めなければならなかった松前藩の立場を合わせ考えると、両藩の円滑な善隣関係を保つことが、ぜひ必要であったといえる。
 それでは同じ年、弘前藩は松前蝦夷地とどのようなかかわりを持ったであろうか。まず注目されるのは嘉永六年十月、カラフトのクシュンコタンロシア兵上陸の風聞を得ての対応。直ちに早道の者を、イシカリを含めて西蝦夷地とカラフトへ内偵に送り、さらに家臣山田左四郎を派遣し実態の把握にあたった。彼は年末には帰国し事後対策を講じているが、現地にいて帰国した喰川村の大工清九郎からも情報がもたらされている。この対応は、松前藩の一番隊がソウヤに到着するのとさしてかわらぬすばやさであった。
 弘前藩による松前蝦夷地警衛(領内での備置も含め)は、幕府からの役務であったとはいえ、歴史的経緯から藩内に根づいていた〝北境の押え〟意識に支えられ進んだといえる。嘉永六年十月二十日の時点でカラフト上陸のロシア兵は越年するものと判断、松前渡海一番手から三番手の編成がすすんだ。倹約令を発し藩財政の窮地に対処しようとするが、住人の負担はさらに大きかった。幕府、弘前松前両藩役人の往来が急増し、ただでさえ生活難を訴えていた蟹田の宿は、もはや「人馬継立方難相成、一宿潰に及候」(弘前藩庁国元『日記』嘉永六年十一月二十四日条)と助情を願い出るありさま。青森の「町中大迷惑とは察するに余りあり」(青森市沿革史 中)という状態に発展していった。とはいえ、弘前藩は松前蝦夷地の警衛に備えることが自藩を固めることになるという認識のもと、多くの難関にいどまざるをえなかったのである。
 次に玉虫左太夫の自筆稿本『入北記』からイシカリ・サッポロの記事を紹介する。