稲荷丸の航跡をもうすこしたどってみよう。安政三年の小稲荷丸(二九四石)の場合である。那珂湊から大俵で二〇〇俵の塩を積んで箱館に入港すると、ユウフツ場所請負人でイシカリやオタルナイに出稼漁場を持つ山田文右衛門に頼まれ、イシカリ行の雇船となった。途中松前に寄って、越後米一五〇俵、網類一一個、荒物小物類一三個の荷物を積み込んだ。これはおそらく山田家のものだろう。
山田家の荷物はオタルナイでおろし、イシカリに到着、塩は鮭の保存になくてはならない加工材料だから、イシカリまで運んだのであろう。山田家は後述(第三節)のようにイシカリで手広く鮭漁をいとなみ、ここの場所請負人阿部屋に二八役又は三七役(漁獲の二割か三割を支払う)を納めたあと、残りは自分の荷物となるから、これの運送を稲荷丸に依頼したのである。
この年、稲荷丸がイシカリから山田家の出稼荷物を積み出すまでには、複雑な背景があった。沖の口体制にからむ経緯を次にふりかえってみることにする。
前述(七六六頁)のように沖の口徴税が東西二分されると、請負場所は東蝦夷地にあるが、そこのアイヌを西蝦夷地に出稼させている山田家は当惑した。本請負場所が東蝦夷地であるならば、イシカリやオタルナイに出稼して生産した荷物もすべて箱館にはこび、箱館沖の口で荷物改めを受けるように命じられたからである。松前藩は出稼所の荷物はそれぞれの場所から積み出すことを認め、「ユウフツ御場所川下け名代免判」を山田家に与え、しかも、イシカリへの立船に役銭減免の優遇措置をとってきた(東西蝦夷地場所請負人問屋共え御収納御取締向相諭御仕法凡拾五ケ条調子書)。蝦夷地の幕府直轄にともない、箱館奉行所はそれを取り消してしまった。おどろいた山田家は取消しの取消しを、安政三年四月上旬奉行所に願い出た。
奉行所は願書の文言がよくないとして書きなおしを指示、それが四月二十二日に奉行所に届けられた。ところが奉行所では前回の願書をもとに評議し、とても認めうる内容ではないとして却下、願書を差しもどして、東西二分方針の貫徹を期した。