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山田家の出稼形態

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 改革前から出稼をつづけた山田文右衛門の場合は事情が違う。山田は改革後も依然としてユウフツ他の場所請負人で、そこのアイヌを自由に動かすことができたから、阿部屋が直面した労務者難におちいらなかった。表8は文久二年(一八六二)、ユウフツ場所からの出稼先と人数である。
表-8 ユウフツ場所からの出稼(文久2年)
出稼目的アイヌ
人数
和人
人数
出発月日
(届出)
帰着月日
(届出)
付添番人備考
番人は父親事故のため4月帰場
 
 
 
 
アイヌ140人の内123人帰場
 
 
 
 
オタルナイ3001.188.1菊松
8002.68.1鉄五郎、浅吉
022.178.1
(オタルナイ計)(120)(2)
アツタ2001.188.1
072.178.1
(アツタ計)(20)(7)
イシカリ23268.110.忠治郎
6008.2110.和吉
7768.3010.福松
(イシカリ計)(160)(32)
イシカリ、
オタルナイ
綱手入13710.18?次郎吉
アツケシ夏漁1502.198.24磯吉
4603.248.24松蔵
904.48.24清吉
(アツケシ計)(70)(0)
蝦夷地夏漁3503.6?永吉、兼松
合 計41848(延人数)
『勇武津御場所諸願諸届書留』による

 これによると、まず一月下旬からアツタ、オタルナイへ鯡漁出稼が始まる。人数はアイヌ一四〇人、和人九人の計一四九人。七月中ここで働き八月一日ユウフツに帰ったことになっているが、それは書類上のことで、多くは八月以降イシカリで鮭漁に従事する。この年、イシカリではアイヌ一六〇人、和人三二人の計一九二人のユウフツ場所住人が働いた。イシカリで鮭漁をおえ、ユウフツにもどるのは十月下旬、その内何人かが翌年の準備に残留し、越年した者もいたらしい。これらの人は山田の引場だけでなく阿部屋にもわれ、そのまま阿部屋の番人になる者もいた。山田はこのほかアッケシや北蝦夷地にも出稼を送り、その年間延人数はアイヌ四一八人、和人四八人、計四六六人をかぞえたのである。
 一方、逆にユウフツ場所へは鰯漁のため、四月下旬から九月にかけ和人を中心に八〇〇~九〇〇人の出稼が入り込む。この年、マコマイ、トマコマイ、コイトイ、ニシタフ、オホフ、タルマイの漁場にあわせて九六〇人が来た。箱館近在を足場に盛岡藩領からの人が多く、ウス、アブタのアイヌ一三五人が含まれている。
 すなわち、図5のように、山田が請負ったユウフツでは、場所内のアイヌを他場所に出稼させて鯡、鮭漁をいとなみ、逆におもに和人を入り込ませて鰯漁をする形をとった。イシカリの出稼鮭漁はこのサイクルの一環をなしていたわけである。だからイシカリ改革で阿部屋が受けたマイナス面は山田にない。山田は従来の出稼引場をすべて継承し、ただ阿部屋に払っていた出稼役を、イシカリ役所に換えて納めれば良いだけである。むしろ阿部屋と対等の立場でイシカリの漁業が営めるようになったわけで、イシカリ改革山田家に有利に作用したといえよう。

図-5 ユウフツ場所出稼カレンダー