もっとも注目すべきは、この時期に、わずかではあるが水稲の栽培が試みられたことである。水稲作については、安政元年九月の堀・村垣の上申書では西蝦夷地はクトウからオタルナイまでが、「米穀等迄尽く出来」とされ、イシカリよりトママイ辺は「夏作粟稗迄は随分可熟由ニ有之」とされているが、安政五年には「石狩漁場条目」中に「永住致候者ハ田畑開発いたし」(安政五午年石狩改革一件 村山家資料)と、この地でも稲作への期待が示されるようになった。
まず、先述したように、安政五年にコトニの開発場で早山清太郎が稲作を行った。この年は水田三畝を開き、一畝あたり籾三斗八升余、玄米にして壱斗九升、計五斗七升を得た(自安政四年至明治十一年、本庁管下各郡村水田段別反収穫調)。これはイシカリ地方最初の米作の成功例として官を喜ばせ、清太郎は一両三分の賞を受け、玄米七升を献じたが(早山清太郎履歴 殖民公報第七号)、この米は同年十二月江戸城にまで運ばれ、「右備後守殿(老中太田資始)エ、近江守一同御直ニ自分上ル、蝦夷地イシカリ新米之儀も申上、小俵一俵録助を以御用部屋エ出ス」(公務日記)として、老中に供覧した。さらに翌六年二月には、
一 石狩ニテ出来新米一俵
御覧相済候由ニテ御下ケ、右ハ備後守エ御頂戴之積リ、録助を以申上部屋番へ為渡候事、
御覧相済候由ニテ御下ケ、右ハ備後守エ御頂戴之積リ、録助を以申上部屋番へ為渡候事、
(同前)
とあって、将軍に供覧されたようである。コトニの水田は安政六年には一反七畝、万延元年に二反四畝と増加していくが、慶応二年コトニの中川金之助の田畑が、御手作場へ引き継がれた際の田面積も二反四畝となっている。
またハッサムでは、文久二年に山岡が水田二町半を起こし、稲を植えたが、「水冷ニして不実」(岩村判官 札幌開拓記)、不成功に終わった。なお早山は荒井村へ移った後も五年間にわたって水稲作を行い、その後水害にあって中断している。さらに中嶋村でも水稲の作付が行われている。
以上のように、この時期における水稲作は、必ずしも成功はしていないが、方法によっては成立する可能性を示したことに意義があったといえよう。慶応二年から始まった大友亀太郎を担当者とする御手作場で、水田と畑を毎年同面積ずつ開拓する計画が立てられたのも、それ以前の水稲作の成果が、何らかの形で反映しているとみられる。
水稲作以外の作物は、粟、稗、麦、豆類、野菜として大根、人参、茄子、胡瓜などが主なものであった。各在住地における状況の若干を、紀行類によってみると、まず玉虫左太夫(忠義)の『入北記』(安政四年)九月十日には、ハッサム在住地について次のように書かれている。
畑地二三町歩モ開ケ、川岸ニハ土手ヲ築キ其景色眼ヲ驚カス程ナリ。地味ハ至テ宜シク、野菜ノ出来内地ニモ劣ラザル程ナリ。且兼テ畑芋(畑に作る里芋)ハ蝦夷地ニハ迚モ生セズト人皆唱ヒケルニ、此処在住旗元山岡誠次郎ナル者、試ノタメ芋種ヲ江戸ヨリ下シ植シカ可ナリニ出来モ宜シキ由、左アレバ能ク手ヲ入レナバ大低ノ物ハ生ズベシ。
また文久二年六月の状況は「至って肥沃にして五穀、野菜の類内地ニ異らす。其中麦、エンドウ豆上出来、稲もかなりの出来、真桑瓜も植付あり。冬向ニても菜ねぎの類、随分出来る。イシカリえ売出すと云」(今井宣徳 蝦夷客中日記)と記されている。
さらにホシオキについて、前述のように在住役宅三軒のほか人家は一軒もないとされているが、松浦武四郎の『西蝦夷日誌』(安政四年)中に大根、蕎麦、粟、黍などがよくできたとある。あるいは在住がみずから耕作したのかもしれない。
このほか文久二年七月に、同年在住から箱館奉行支配組頭に取り立てられた栗本鯤(匏庵)が、カラフトなどの巡回の際イシカリを見分している(栗本鯤 北辺日録)。ここで栗本が見分した在住の「墾地」は、ハリウス(葛山愑輔―幸三郎)、ハッサム(山岡ほか二、三人)、オタルナイ川(永嶋玄造場内松井八右衛門)、それにおそらくワッカオイと思われる畠山万吉のところである。
なお、在住の年貢収納に関しては、史料は今のところ見出していない。ただ大友亀太郎文書のうち『御用控 慶応四年』の中で、大友の引き受けた中川金之助開墾地、および山岡精次郎が開き、退去に伴って差し出した場所と御手作場について官の徴収する年貢に関する文書では、結局反当たり永一二五文とされた。この金額は、年貢というにはあまりにも低額で、経済的意義はほとんどなく、むしろ年貢を納めることによって、百姓身分になるということの意味が強かったと思われる。在住の年貢の収納についても、おそらくほぼ同様で、少なくとも在住の生活を支えるだけの年貢は、明治に至るまで収納されていなかったといえよう。
写真-4 「山岡精次郎等移住之地」木標
(琴似町史所収)