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周辺村落の形成と移民

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 開拓使北海道本府を札幌に置くことを立案するのは二年七月の開拓使設置当初である。ただ札幌本府論は開拓使や明治政府の内部でも迂余曲折を経ていることは、第一節で詳述した通りであるが、開拓判官の島義勇は本府建設とともに周辺村落の形成を企図し、三年に至り移民の募集に着手する。それが庚午移民である。庚午移民の募集も開拓使上層部の紛糾と島義勇の転任により多くの問題を残したが、主に山形・新潟県内から募集され、苗穂・丘珠・円山村の創設に至った。
 翌四年は開拓使でも周到な計画と準備をかけて移民の募集が行われた。この年の辛未移民は主に岩手・宮城県内から募集され、月寒・対雁・花畔(ばんなぐろ)・生振村(おやふるむら)が創設された。以上は農民層の移住によるものであるが、この年は旧仙台藩白石領の片倉家臣団が開拓使貫属となり白石手稲村へ(ただし手稲村入地は五年二月)、同じく水沢領の伊達家臣団が開拓使支配となり、同地の農民と共に平岸村へ入植した。