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辛未村の計画

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 四年の辛未移民の募集計画と併行して、札幌近在に渡来していた農民や日本海沿岸に出稼ぎに来ていた人びとを、官募移民にくり入れる計画も進められていた。計画は三年九月頃から札幌開墾掛にて立案されている。これは庚午移民の場合、「御雇入ニ付罷出候位之気分」(市史 第七巻七八頁)で、扶助に慣れて開墾に出精せず土着心に乏しいことがまず挙げられている。さらに、「北海道居合之良民取立候ハハ転居之費無之、開作之運宜敷」(同前七七頁)と諸県での募集にくらべ移住費用の削減となり、他県から募集すると入植は四、五月となり播種期に間に合わないことを挙げている。十文字等は移民の入植時期を二月に主張しており、この点でも辛未移民の札幌周辺での募集が有利と考えられたのである。
 辛未村の計画は、三年九月二十日に十文字龍助大主典から函館詰の得能通顕権判官にあてた書簡によると、「先日伺済ニ相成居候此表(札幌)にて御取立相成候農民既に三十戸余ニ相及、当時小屋掛並切趣(起カ)ニも懸居候」(同前五九頁)と述べられており、すでに三〇余戸の募集、小屋掛けに着手していると伝えている。そして四年春までには、「二百戸も相集可申見込ニ御座候」と述べている。この計画は、函館詰の開拓使首脳部の計画とは相違するので、十月二十一日に「良民」三〇戸に限り許可し、計画の縮小を求めている。「良民」とは、身許が確かな農民を指し、出稼ぎなどの雑業者は忌避されたのであろう。三〇戸と限定されたが、十文字は閏十月十日に、「已ニ五十戸ニ相至リ」(同前七八頁)という理由で、五〇戸が認められている。以上の交渉、計画推進の様子は、十文字龍助の「日記」(市史 第六巻)にもよくうかがうことができる。
 このように計画された辛未村も、間もなく琴似村に移転されることになった。この経緯につき『札幌区市街各村之開拓ノ顚末』(明治十年、函図)が詳しい。これによると辛未村
明治四年九月中於御当地ニ御取立ニ相成、札幌町ヨリ南ノ方エ四丁余隔リ辛未村ト被称五十戸被置候処、右地御用ニ付同年十月中何レカ地所可見立旨御達ニ付同月中琴似村ヲ見ルニ、(中略)先以此地ヲ開カン事ヲ議定シ此旨上申仕地所御割渡ニ相成、於右地ニ従来農六戸有之ニ付五十戸ノ内六戸円山村ニ被移

とあり、四四戸が琴似に移転したことが述べられている。辛未村の場所は現在の中央区南四条通以南の地域と推定されるが、遊郭の建設や将来の市街の拡大をみこしての移転であったと思われる。辛未村には実際、農民小屋なども建設され、のちの〝御用火事〟の一因ともなった。
 琴似村への地所選定は、高見沢権之丞によると四年二月十日に、「辛未四ノ村」を「見立地ニテ今日御見分ニ相成、棒杭建初メテ木ヲ切村地相定リ」(札縨御開拓記)とされている。辛未四ノ村は庚午三ノ村に続くというナンバーなのであろうが、四年二月か三月に移住が行われたことは『仕上ケ御勘定帳』でもわかる。二月の扶助米に辛未一ノ村一五八人が初めてあらわれるが、塩噌料の方では琴似村一五八人(三月一八三人、八月以降一六二人)と記載され、三月以降琴似村と表記されている。
 新たに琴似村に入った四四戸の出身は、『琴似町史』掲載の戸籍簿からうかがうことができる。この中で陸奥出身者が多く、東北地方や道南出身が大部分をしめている。四四戸は三カ所に分かれて入植し、入植地はその戸数から八軒十二軒二十四軒と呼ばれた。八軒二十四軒は現在も西区の町名として伝えられているが、いまの中央区宮の森の位置にあたる十二軒は地名として早く消滅した。