前述の通り、西村権監事は本府として一里四方もなければとして一定の地域を限定した。周辺の村落は当時すでにあった街道に沿って一定の距離を保って入植していたため、境界を決定する必要はなかった。しかし五年に本格的な本府建設が開始されていくと「未た小樽石狩両郡の境界等も不相定、追々人烟繁殖致候テハ、不体裁之事件も差起り可申哉に付」と、開墾掛は郡境や村落ごとの境界確定の必要性を主張した。さらに六年八月には、本庁から四方一里のうちを測量して、絵図面を作成しておかなければ検地に不都合であるとして、本庁を中心に二〇町内の絵図面を作成しようとしている。さらに民事局では、八月「採薪草薙等に就て争論も不少」などの理由をあげて境界の必要性を主張し、略図をつくり仮境界を制定しようとした(地理諸留 道文六五九)。この市街と各村との境界確定の実際の動きは、九年十一月になって測量用の物資の調達をし、十二月には測量が終了している。そして仮標杭を一六本要所に配置する案を提出した(取裁録 道文一五八〇)。市街地については、その後十一年に境界に仮境杭を設置して確定した。また周辺村落でも順次、その境界を確定していった。十一年市街区画と村界、十二年丘珠・上白石村各仮境界、十三年豊平・平岸・篠路・山鼻・円山・琴似・発寒・上手稲・下手稲・対雁・札幌・苗穂・丘珠村各境界、十四年上白石・白石・月寒村各境界などの測量が行われている(開拓使事業報告)。十一年以降にその確定が集中するのは、十一年地方三新法制定の関係で、戸籍調査上や地券調査上、さらに地方税の徴収に関して所属を確定するため必要であったからである。
この境界確定には次のような話が残っている。十一年六月に山鼻村と円山村では、地理課が測量後に道路を境界としたことから、境界辺にいた二戸を山鼻村から円山村へ送籍しなければならなくなった。村々の事情を知らない地理課員が勝手に境界を確定したものと思われる。そのため境界は、地理課員出張の上、両村戸長立合いで双方の差支えないように決定することに変更された(取裁録 道文二四七二)。