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諸村の人口と移住の動向

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 開拓使が廃止となる明治十四年までの諸村の戸数、戸口数を示すと、表1のようになる。一部数値に不審の点もあるが、この時期のデータは『開拓使事業報告』のみなので、これをもとに考察をめぐらすことにする。
表-1 諸村の戸数と戸口表
明治34567891011121314
山鼻561318354964
112632653446154
円山304145454547474754565656
90141156162169183190193224239235254
琴似50545960606061626263
182198218225228236241255256259
発寒4722272727282828222018
79113107108109107108817266
手稲53585858575757575760
241258238266276272263272277294
手稲343436363740444670
9598102105107114133143217
豊平514181920
1329394545
平岸6565656565656564636354
203214210229231235233232230230229
月寒43434546484850535354101
185195210215218232233249249266500
白石
白石
1041029898989998999896
380370373389397404430445452458
札幌485057647173757373747369
184193200211227295311307316333302300
苗穂363940404545454644475553
120143153161173195198204196209228251
雁来191919192021222223
7072757780101104103123
丘珠303030303131313232323535
88101109121127131135133133136145155
篠路324244446060626569707175
101101152181196205205214214199228257
兵村琴似・発寒198233233240240240240
965111410901142112311551183
山鼻240240240240240240
111411261168116011351093
札幌市街921155670974477982587672285010311136
136371553194920272126223823982174281633833823
1.上段は戸数、下段は戸口数。2.『開拓使事業報告』第2編及び第5編より作成。

 いまの札幌市域に当時は一七カ村があったが、このうち琴似、発寒、山鼻の三カ村に屯田兵が入植した兵村があった。表1では第一中隊の琴似・発寒、第二中隊の山鼻兵村の戸数、戸口数が別に算出されている。そのため琴似、発寒村のみの戸数、戸口数は抽出できない。ただし発寒屯田兵の戸数は三二戸であるから、戸数の抽出はできる。また白石上白石村もあわせて算出されている。両村の比率は八対二くらいかとみられるが、白石上白石村のみの戸数、戸口数は算出できない。
 以上のことを念頭におき表1をみると、当時もっとも戸数等が多いのは、兵村をもつ琴似・山鼻村であったことは勿論であるが、一般の移住村では十三年段階で白石・札幌村が多く、ついで円山・上手稲・平岸・月寒村などであった。逆に少ないのは雁来・丘珠村であった。十四年に月寒村が急増しているのは、福岡県の報国社が現在の豊平区里塚に移住したことによる(ただし移住は失敗に終わった)。また下手稲村の増加は、山口県移民が現在の手稲区山口に移住したことによる。
 明治初期から十三年までの諸村の戸数等の推移をみると、山鼻村が市街地に近接しているために増加し、あと札幌・篠路村が微増をみた程度でほとんど大きな変化はない。これは諸村とも三、四年の官募移住のあと、後続の移住がなかったことを示している。開拓使は五年以降に官募移住を実施せず、また移民の重点を八、九年の屯田兵移住に転換したことにもよっている。
 このように開拓使の時期は、戸数等の面からみると静態的な状況を保ち、自発的な移住民の到来がほとんどみられなかった。これは第一に、府県では士族・農民層の窮乏が顕在化しても北海道移住に結びつく状況がつくられていないこと、第二に開拓使や明治政府でも積極的な移住奨励策が創出されていなかったことによる。