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兵屋

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 屯田兵には各家族に一戸の住宅が給与され、これを兵屋という。独身者は四人で一戸に住み結婚すると一戸を与えられた。これは開拓使屯田兵入地以前に建てておき、到着の日から居住できるよう準備されたので、官による手厚い保護例として取り上げられることもある。琴似、山鼻兵村における建築戸数等は表1のとおりで、両兵村に各二四〇戸、合計四八〇戸つくられ、その費用は九万五七四九円二二銭、一戸当たりの建築費は七年琴似村が最も高く二一〇円七〇銭、山鼻兵村は一九二円五六銭二厘、最安値は八年琴似村増設分で一七八円一〇銭四厘である。これに二~四戸で共同利用する井戸が付設され、その額は三〇〇六円四四銭七厘、一カ所につき二二円一〇銭六厘を要した。井戸を含めた兵屋の総建築費は九万八七五五円六六銭七厘となる。
表-1 兵屋建築戸数と費用
兵 村戸 数完成年月費 用1戸当費用1坪当費用井戸付設費
琴似兵村琴似村200戸7年11月42140円210円12円1610円(64ヵ所)
琴似村88年142417810-
発寒328年10月596518610179 (8ヵ所)
山鼻兵村山鼻村2409年 5月46214192111163 (60ヵ所)
山鼻村- 10年---53 (53ヵ所)
合 計48095749(平均)
199
(平均)
11
3006 (136ヵ所)
1.『開拓使事業報告原稿』(道文7163)より作成。2.1円以下切捨てたので合計金額と差がある。

 建物は間口(桁行)五間、奥行(梁間)三・五間、建坪一七坪五合(約五八平方メートル)、木造平屋一戸建、土壁の外面は下見板ばり、屋根は柾葺で小さい煙出しを屋上につけた日本在来の農家風建物だが、小屋組に洋風トラスを使っている。間取りは判然としない部分があるが、屯田兵例則により給与される「屯田兵居宅略図」に説明を加えると図2のようになる。山田勝伴は『開拓使最初の屯田兵』で実生活に基づく兵屋平面図を掲げたが、それは板間が図2より半間分広く土間がその分狭い。また板間上り縁に一尺幅の踏板を敷いたといい、山鼻兵村ではそれがなく裏口の引戸を半間外側に移し、便所を土間に取り込む間取りにしている(山鼻創基八十一周年記念誌)。畳座敷はいずれも六畳と四畳半の二部屋である。兵屋建築にいたる厳しい財政状況と綿密な交渉過程からすると、踏板などの小差は生じても二つの兵村間に間取りなど大きな構造差異があったとは考えにくいので、四八〇戸は同一平面と思われる。また一兵村内で複数の平面プランが施行されたとも断じがたく、遺構の差異は生活の便宜上改造を加えた結果であるらしい。新築時の原型再現には設計図等の史料や遺構の精査が待たれるところである。

図-2 屯田兵屋平面図 「屯田兵例則一件」(開拓使公文録 道文5860)をもとに作成。

 兵屋完工にむけて多くの意見が出され、工事着手後も設計変更が重ねられた。一戸建になるまでに二戸建、四戸長屋、その組み合わせ案などがあり、物置小屋、風呂場、馬小屋の付設意見、据付ストーブ(カヘル)を全戸に設け、その材料を函館のレンガにするか札幌穴の沢の軟石にするか、壁や天井は石灰を使った本格的な白壁塗仕上げとし西洋式防寒住宅とする案等々が次々に出ては消えていった。東京にあって兵屋建築を督促する開拓次官黒田清隆は工事の遅延に対し、札幌の総責任者松本十郎大判官に「頗ル遺憾之至ニ候」(開拓使公文録 道文五七九一)と書き送っているものの、現地では不況対策としてこの大工事に最大限の力をそそいだ。とはいっても琴似、山鼻の兵屋には後年着工する江別の二分の一、篠津の四分の一の費用しか投じていない。これをもし地方官吏の宿舎に含めるならば、大主典官舎の一坪当たり建築費の五分の一にすぎないから、出来上った兵屋の狭さ簡易さに批判が生じて当然だった。この時、前年までの開拓使営繕予算超過に対する反発をまともに受け、徹底した緊縮財政措置の下でなされた工事であってみれば必然の結果であろう。
 明治十一年全兵屋に防火用水桶を設置するような小修理はあったが、大きな改修を全戸に施すようなことはなかった。ただ十五年に全兵屋に六坪の養蚕製麻用作業庫を増築する費用として、一戸八三円余が開拓使から給与されるが、この金は運輸会社の株式投資に振り向けられ、作業庫が一斉に増築されたのではない。