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病院と学校

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 兵員と家族は温暖な地方から移住してくるので、保健対策は大きな課題であった。琴似への最初の入地に際し、開拓使札幌病院に「屯田兵及ヒ家族疾病有之節ハ、直ニ其病院へ及報知候筈ニ候条、其時々医員出張診察治療可致」ことを指示したが、患者はことのほか多く、「新移ノ輩、未タ風土ニ不慣ヨリ、或ハ病患ニ罹リ、難渋ノ者モ有之哉ニ指見候ニ付、当分ノ内一名ツヽ、毎日昼ノ間琴似村へ可相詰」(開拓使布令録 明治八年)ようあらためた。移住三カ月後の八月には早くも兵員中に病気恢復の見通しがなく、除隊手続を検討しなければならなくなる。
 そこで琴似兵村に八年十一月札幌病院の出張所を開設し医師を派遣(琴似病院とか医院と呼ぶこともある)、山鼻兵村にも翌九年五月仮出張所が置かれた。後者は札幌市街に近く医師の往診がしやすいとして、同年八月制度上は仮出張所を停止する。しかし「近比、患者及ヒ薬取之外、用向無之輩、同所エ相集リ雑談等致候者モ有之哉ニ相聞、甚以不都合之至ニ付、向後患者并ニ薬取其他無拠用向有之者之外、同院へ相集リ候様之儀一切不相成」(屯田兵村回文控)との注意書が残っているから、兵屋の一軒を医療施設として存置し続けたようである。十年十一月に両所とも廃止となり、以後はしばらく一般住民と同じ取扱いになった。
 屯田兵と家族は扶助期間中、傷病治療入院の費用をすべて開拓使から支給され、その間の支出は四〇〇〇円をこえ(表2)、これは琴似・山鼻の両学校建築費にほぼ相当する。この金額からも慣れぬ土地でいかに病魔に悩まされたかうかがえよう。
表-2 開拓使が支出した屯田兵と家族の傷病による入院料と薬代
期 間(明治)支出金額備 考
 8年5月~  6月28円13銭2厘琴似
 8年7月~ 9年6月333. 48. 7琴似,山鼻
 9年7月~10年6月899. 70. 9琴似,山鼻
10年7月~11年6月779. 87. 5琴似,山鼻
11年5月~12年6月1,429. 23. 0琴似,山鼻, 江別
12年5月~13年6月707. 78. 5山鼻,江別
合 計4,178. 21. 8
開拓使事業報告原稿』(道文7163)より作成。

 一方、兵屋兵村内外の清掃には細心の注意をはらい、伝染病の予防、保健慣行の普及に努めた。琴似の生活を回想し「現役中は兵屋の附近は勿論道路に至るまで一本の草を生せしめず一片の芥をも散せしめず」(琴似兵村誌)という徹底した衛生管理がなされた。山鼻兵村も同様で「毎年兵器と農具検査の際、兵屋内外の掃除を厳重に実施」(山鼻創基八十一周年記念誌)したといわれる。用水利用にあたっても細心の注意をはらったのである。
 国政の課題でもある学校教育には、入地後いち早く強い関心がそそがれた。逆境にあればなおのこと、次代を託する子供の教育を積極的にすすめたのであろう。病院にしろ就産にしろ開拓使主導の事業が多かった中で、学校の設立は兵員家族の要望を開拓使がくみとりまとめる形で実現した。
 入地当初、まだ兵村内に公的な学校がないため、子供の教育に二つの方法を選んだ。一つは兵村周辺の既設の教育施設へ通学させること、もう一つは兵員もしくはその家族が個人か数人で協力し私塾を開き、その内一校を兵村の仮学校にあてた(第六章参照)。周辺施設への通学は道路事情や小さな子供の体力に限界があり、私塾にしても兵屋の狭さ、設備の不足、維持経費の捻出に多くの困難をともなった。それでも兵村内の学習意欲はきわめて高く、多くの子供がそれらに学んだが、一方より充実した学校の設立を望む声は一段と大きくなっていった。
 そこで開拓使は各兵村の練兵場の一角を学校敷地とし、校舎を新設することに決定、二つの小学校が十年七月完成をみたのである。いずれも二階建外装ペンキ塗装の西洋式建築で、琴似の延面積は二〇七坪(約六八三平方メートル)、山鼻は一五四・五坪と多少のちがいはあるもののほぼ同規模で、両校あわせた建築費用は四六一六円一四銭二厘、翌年二〇〇円余を投じて兵村内初のストーブを据付け冬期暖房に備えた。和風建築の週番所が兵村の権威のシンボルだとすれば、西洋建築の小学校は文化のシンボルと呼ぶにふさわしい施設である。
 両校とも開拓使学務局が直轄したので、わずかな授業料を徴収したとはいえ、教員給料をはじめとするほとんどの経費は開拓使が支弁し、官立学校と呼ばれることがある。兵村周辺の子供も入学することができ、建物の完工とともに仮開校したが、西南戦争に出役中の兵員が帰村するのを待ち、琴似小学校は十一年三月二十六日、山鼻小学校は同四月十八日それぞれ落成式を挙行した。

写真-6 琴似小学校外観(『琴似町史』より)

 設立後の学校運営は必ずしも平穏ではなく、琴似では初代校長排斥事件、山鼻では二十三年に校舎の焼失といった不幸な出来事はあったけれども、この学校が兵村の形成発展におよぼした役割は大きかったといわなければならない。開拓使は当時採用しうる最も好条件の教員を常に両校に配置し、新しい村づくりに積極的に参画させた。兵村の構成員は多地域から集まり、それぞれ異なる生活習慣を持ちこんできた。言葉にしても会津と亘理と津軽の方言差は大きく、隣家と会話が難しく意思の疎通を欠きがちだったという。こうした中で言葉の共通化、生産技術の修得、生活様式の改善等が学校教育を通して浸透していったといえよう。なお、十五年一月から教員給料を除く学校運営経費は民費負担となり、兵村内部で学校を維持するよう変更になった。