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札幌周辺地域との連絡網の整備

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 開拓使時代以来、札幌市街の周辺には多数の入植地ができ、人員も増えてきた。そのため札幌県は、道都札幌のためにも、また周辺村落のためにもその連絡網の整備に腐心した。特に開拓地にとって物資補給路の確保、生産物の運搬路の確保は死活問題であった。開拓使時代以来新規入植地と札幌との間には順次連絡路は確保された。札幌県時代も同様で、福岡開墾地(現北区篠路町福移辺)には再三の出願の上ではあるが、篠路との連絡路が整備された。この時代の連絡路確保の特徴は、札幌と開拓地を結ぶ路線だけでなく、開拓地入植地相互の連絡路が整備されたことである。例えば、十五年には篠路村福岡開墾地から里道開削願い、篠路・銭函間道路開削計画、十六年手稲山口村里道開削願い、丘珠村から字レツレップへの里道開設計画、篠路村福岡開墾地から里道開設願い、篠路村福岡開墾地への道路開設計画、十七年篠路村から札幌村字「令都烈府」への道路開設計画、篠路村当別太・対雁間道路開設計画などである(札幌県治類典 道文八二一八、八二一九、八二二一、八九二五、八七五二、九七三四、九七三七)。
 開拓使時代には、銭函道・千歳道・札幌本道の主要幹線道路の整備、そして平岸・白石山鼻村など、どちらかというと札幌南半部の入植地への連絡路の整備があった。さらに札幌県時代には、札幌・丘珠・篠路・山口村など、どちらかというと札幌北半部の入植地への連絡路の整備、さらにその入植地間の連絡路の整備が行われた。次いで道庁初期には、新琴似・篠路屯田兵村へのそれぞれ琴似村札幌区からの連絡路が確保され、札幌とその周辺の入植地の間の連絡道路網は一応形を整えた。しかしその道路は、道庁時代に再三砂利敷工事などを繰り返すような粗悪なものが多かった。しかし曲がりなりにも道庁初期を含む札幌県時代に、札幌市街を中心とする道路連絡網は整備されたのである。