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開成社と厚別の信濃開墾

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 開成社は十五年に長野県東筑摩郡二子村(現松本市)の牛山民吉、札幌の実業家石川正蔵水原寅蔵大岡助右衛門畠山六兵衛が企画した開墾会社であった。長野県の農民を招致して開墾を行い農場を設置する予定であったとみられる。ところが会社設立については大蔵省の許可と法人手続が必要なために設立までは至らず、結社の形態で存続した。
 開成社の農民募集に関与したのが、十一年に長野県諏訪郡湖南村(こなみむら)(現諏訪市)から札幌村へ移住していた上島正である。彼は牛山民吉の計画を聞いて賛同し、自ら帰郷して三〇戸の農民を招致してきた。しかし牛山と意見があわなくなり、三〇戸は円山・札幌・白石村などに分住することになった(移住者成績調査第二編 明治四十一年)。一方、開成社では幌向原野に地所割渡しをうけたが入植したのは三戸のみであった(江別太郷土史)。

写真-4 上島正(北海道人名辞書より)

 上島正が招致した中で名前が知られているのは、武居総蔵(札幌村)、宮坂坂蔵(琴似村)、河西由蔵(白石村)などである。武居総蔵は長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)の出身で、十五年に移住して札幌村に七〇〇円で未開地五町と家屋を購入した。早くから玉葱作りに着目し、のちに札幌村村会議員、農会の役員もつとめている(移住者成績調査 第一編 明治三十九年)。宮坂坂蔵は諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)の出身で、最初は琴似村で果樹と養蚕を営み、特に養蚕では良繭を作り何度か賞を得ている(北海道人名辞書)。河西由蔵も同じく上諏訪村出身で、十五年三月に白石村の厚別に入植する。河西を追って厚別に移住してくる長野県出身者が多く、ここが信濃(信州)開墾と称されるようになった(同前 第二編)。彼は移住結社として高島舎(社)を組織したこともあったようである。信濃開墾について十六年十一月の札幌区各村移民景況取調の「復命書」(市史 第七巻)は、八戸二九人が「十五年四月私費ヲ以テ長野県ヨリ移住、而シテ川西由蔵ナルモノ諸事担任、同心協力専ラ開墾ニ従事シ」と述べている。また十六年は豊作に恵まれ反収も良い所だったので、「他ノ同国人大ニ羨望、現今ニ到リ遂ニ該所ニ小屋掛ヲ設ケ開墾ニ従事スル者既ニ八名ニ到ル。因テ漸次該所ニ一ノ村落ヲナシ専ラ水田ヲ開発シ…」と述べ、同国人による「一ノ村落」の形成が見込まれ、水田開発のことが特記されている。信濃開墾は「復命書」の通り、この後も長野県出身者を中心にして移住が相次ぎ、二十六年には戸数二五〇戸、八一六人(八五五人ともする。豊平町史資料)にも達する「一ノ村落」に発展した。さらに水田開発の試みも成功し、厚別川流域には広大な水田が開けていった。
 上島正が招致した三〇戸(十数戸、あるいは二五戸とする史料もある)は、比較的資金のある農民が多かったためか、それぞれ地所を購入したり未開地の割渡しをうけて定着した様子である。上島正は諏訪市にある諏訪神社の分霊を移し諏訪神社を創祀したり、札幌の名園とよばれ特にショウブが有名な東皐園を開いたことでも知られている(札幌百年の人びと)。円山村に十四年四月に移住した藤森銀蔵も、上島正の手引きで移住したという(移住者成績調査 第二編)。