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住宅資金と住宅事情

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 札幌市街に住居を構えようとする商人には、明治二年十一月段階で開拓使家作料として一戸一〇〇円を貸与することとした。しかし、実際に建てられた住居の多くが茅葺屋根であったので、開拓使は四年二月二十八日札幌町役人宛に本格的家作建設を奨励する次の布達を出した。
当市街エ自己ヨリ願出近郡ヨリ移住致候商民共エ家作料トシテ金百両宛十ケ年賦ニシテ拝借被仰付候旨先般相触置候処右ハ無利足ニシテ返納被仰付候条其旨可相心得事
右之趣可相触モノ也
  二月廿八日札幌開拓使
札幌町役人
(部類抄録 道図)

 家作料貸与の布達の後、同年五月から札幌本府建設の本格的区画割が開始され、一般庶民に間口五間、奥行二七間の一三五坪を単位として割渡が行われた。実際に、同年七月までに稲垣与兵衛以下五三人が家作費貸与を受けている。この場合、まず伐木手配金三〇両を借り受け、次いで家作見分の上二〇両を借り受け、全部で一〇〇両以内を借入しているのが確認される(営繕費拝借願 道文四五三)。六年の札幌の状況を見た林顕三がその著書『北海紀行』に、「一昨年官金ヲ仰キ一時蟻集ノ徒ハ永世不抜ノ産ヲ立ル者稀ニシテ朝進暮退変化極リナシ然ト雖モ若干金ヲ私有シ或ハ活業自立ノ者ハ家屋ヲ盛大ニシテ諸物品ヲ輸出シ商店ヲ宏開スルモアリ」と記しているごとく、多少金を手にしたり、商業活動が軌道にのっている者は家屋の構えも立派だが、ただ官金目当てに一時群がってきたような者たちは腰がなかなか落ち着かない状態にあった。茅葺小屋に居住している限り人心も落ち着かないとみてとった開拓使が、積極的に住宅資金貸与をすすめた結果、ようやく半永久的な木造柾屋根葺の住居が建ち始めた。茅葺小屋は野火のために類焼する心配があった。事実「当市街仮小屋ヨリ度々出火」することから、五年三月末には民事局布達によって官吏の手により野焼きとともに「仮小屋取除」が実行された。これが一般に「御用火事」と呼ばれるものである。
 一方、札幌の村に移住した農家の場合、土地の貸下げと同時に募移・自移にかかわらず小屋掛料として金五円が支給された。四年冬白石村上手稲村に移住した元仙台藩士片倉家従者の場合、特に白石村では雪中に茅葺小屋を建てて入居している。ここで二冬を過ごし、六年秋ようやく一戸につき七五円の家作料を受け本格的住居に入居することになった(移民履歴調 市史 第七巻)。また一方、四年岩手・秋田両県から平岸村へ移住した農家の場合、まだ住居が建っていなかったので、一旦は大きな小屋に何家族も同居し、それぞれが堀立小屋を建てて移り住み、その後やっと間口六間、奥行二間半(一五坪)の柾屋根葺の官給の住居が完成し、引き移っている(平岸村開拓史)。
 同じ農家であっても山鼻・琴似両村の屯田兵の場合は少し異なった。間口五間、奥行三間半(建坪一七坪五合)の木造平屋建住居は、屯田兵の入植前に準備され、しかも一般農家よりははるかに堅牢な作りであった。