ビューア該当ページ

札幌製糸場の開業と工女呼戻し

558 ~ 564 / 1047ページ
 開拓使では、以上のように七年三月官営富岡製糸場へ工女六人を、七年十一月私立水沼製糸所へ工女二五人を技術伝習のために派遣した。この場合、水沼製糸所派遣の目的には屯田兵授産救育が明確にうち出されていた。さらに開拓使では、福島・置賜両県へも札幌本庁から養蚕伝習生・伝習工女として夫婦もの六組を派遣している。このうち五組は前述したように上手稲上白石村の元仙台藩士片倉家従者のものたちであった。
 伝習工女を各地へ派遣する一方、開拓使では八年四月、札幌浜益通(現北一条西八丁目)に札幌養蚕場を新築し、各郡移民男女三〇人および屯田兵家族二〇人を養蚕修行人として募った。これを受けて六月には琴似屯田兵の家族一七人が実際に応募している(開拓使公文録 道文六〇〇二)。
 さらに同年八月には、札幌雨龍通(現北一条東二丁目)に製糸室、貯繭室、蒸殺室各一棟が新築され、木製座繰器械一六座を装置し、勧業課東京試験場より製糸工女一三人を招聘した。この工女らは、工女取締老婦一人、指揮婦一人、工女八人、手伝婦三人からなり、給料は月額一二円から七円の万事特別待遇であった。しかし、器械の車軸が度々折れたり、あるいは繰湯が適度に沸騰しなかったり事故が続出し、工女と残った繭を東京試験場に送って繰糸しなければならなかった(開拓使公文録 道文六〇四五、六〇八五)。
 東京試験場工女の帰国後は、もっぱら屯田兵家族や各郡から募集の養蚕修行人によって座繰修行が継続され、翌九年三月には一八人の工女によって四石二斗七升五合の生糸が生産された(同前六一九〇、六二一五)。
 九年五月開拓使は、製糸場に富岡模造の器械製糸二四座と蒸気機関六馬力一基とスウェーデン型繰釜を装置することにした。このため、水沼製糸所行き工女以外の富岡と福島・置賜の三カ所の工女を至急呼び戻すことが決定された。それと同時に勧業課東京試験場の工女二七人ほどを札幌製糸場に雇い入れることが決定した。
 官営富岡製糸場および福島・置賜二県へは七月十五日付で開拓中判官西村貞陽が工女呼戻しの交渉にあたった。その結果富岡の六人の工女については、七月二十四日東京試験場雇入れの工女二二人と一緒に開拓使の官船玄武丸に乗船させて帰国させた。一方の福島・置賜二県の工女たちは、陸路青森経由で帰国させている(同前六一四七)。
 札幌製糸場の新築落成開業式は、九年九月二十三日開拓長官黒田清隆をはじめ勧業課官員列席のもと行われ、蚕業婦(札幌製糸場での製糸工女の呼称)による模範繰糸も演じられた(同前五八三九)。

この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、
著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。
 
写真-7 札幌製糸場新築開業落成式 明治9年9月23日(北大図)

 ところで、器械製糸の開業にあたり勧業課では、富岡模造の器械製糸は東京試験場雇入れ工女と伝習工女、すなわち「精選工女」があたることとし、従来の座繰製糸器械は「札幌修業人ニ習業」させることとした。そこで同年八月末段階に「蚕業男女等級給料」を決定した。表13は、新築落成当時札幌製糸場に在籍した蚕業男女の等級、賃金、出身、職歴等をまとめたものである。この表によると、在籍蚕業男女六八人中二二人は、東京試験場雇入れ工女で、上位六等までに格付けされ、開拓使派遣の伝習工女六人は、三人が四等に、三人が七等に格付けされているのがわかる。また、前年より札幌製糸場養蚕修業人に応募していた屯田兵家族等は、一〇等および一〇等見習に格付けされた。ところで、この表でもわかるとおり、官営富岡製糸場で技術伝習した工女が開拓使を含め一一人もいることは、開拓使が当時の最先端技術をもった製糸業を殖産興業政策の柱に据えていたことがうかがわれよう。また、水沼や福島・置賜の三カ所へ伝習工女派遣に際し常に「屯田殖産授産救育」を目的に掲げていたごとく、屯田兵の家族をもってその労働力に充てようとしていることも知られる。それのみならず、東京試験場雇入れ工女のうちに、たとえば一等蚕業婦新妻みななど三人が屯田兵家族であったり、同じく三沢とよ・遠藤はなのように、富岡製糸場から札幌製糸場へ移籍手続をとった工女もいた(旧開拓使会計書類 道文六五九九)。
表-13 札幌製糸場男女等級賃金表(明治9年8月)
No.氏 名旧等級新等級日給出 身職 歴
1芳賀むら指揮婦工女世話方8年札幌製糸場在場9年8月勧業課東京試験場より雇入れ
2牧野せい検査工女製糸検査婦36
3津田つね36
4新妻みな1等工女1等蚕業婦32会津藩士山鼻屯田兵新妻富太郎姪
5三沢とよ32元青森県士族琴似屯田兵三沢毅娘富岡製糸場御雇
6遠藤はな32元青森県士族琴似屯田兵岩田英吉妹富岡製糸場御雇
7有珠のぶ328年札幌製糸場在場
8稲葉とめ2等工女2等蚕業婦31
9津田ふゆ31
10伴いく31
11諸井えい318年札幌製糸場在場
12高橋りつ2等蚕業雇31仙台藩士福井蓮娘・琴似屯田兵高橋寛妻5年11月~8年12月富岡製糸場伝習工女
13市川とく3等工女3等蚕業婦299年8月勧業課東京試験場より雇入れ
14久保田よね298年札幌製糸場在場
15水谷さく29
16水谷きぬ29
17池田わし29富岡製糸場工女
18根津かつ4等工女4等蚕業婦28
19榎本とよ28
20菅野きそ富岡3等工女28元士族上白石村菅野嘉敏長女7年3月~9年7月富岡製糸場伝習工女
21大河内なか28元士族上白石村大河内頼綱妹
22今泉やえ28七重村農今泉善太郎三女
23鹿島ます4等工女5等蚕業婦269年8月勧業課東京試験場より雇入れ
24竹中たつ26
25河原けい3等工女26富岡製糸場工女
26新井とり4等工女6等蚕業婦23
27井上正篤蚕事取扱6等蚕事取扱23
28石井孫兵衛23
29加藤きう富岡6等工女7等蚕業婦20元士族上白石村加藤利道長女7年3月~9年7月富岡製糸場伝習工女
30斎藤きん20七重村農斎藤東十郎二女
31松本とせ20鷲木村農松本芳三郎長女
32佐藤倫俊3等蚕業雇8等蚕事取扱19上手稲村
33遠藤堅守19
34赤塚志賀吉19会津藩余市郡農
35安斉宝吉3等蚕業雇9等蚕事取扱16
36渡辺忠吉16会津藩余市郡農
37大友恒之助16
38赤塚すて10等蚕業婦15会津藩士赤塚志賀吉娘9年1月札幌製糸場在場
39遠藤まつえ15仙台藩士山鼻屯田兵遠藤徳之丞娘
40佐藤しが15
41山口ちよ3等雇10等見習10札幌市中山口吉太郎8年機織修業
42熊沢さわの10上手稲村元士族熊沢金次郎娘9年1月札幌製糸場在場
43半沢まさ10上手稲村元士族半沢喜仙娘8年機織修業
44守谷かつ10仙台藩士山鼻屯田兵守谷民治娘9年1月札幌製糸場在場
45富田きく10元松本藩士琴似屯田兵富田貞賢8年7月札幌製糸場養蚕修業人
46太田てつ10
47柴田とも6等雇10
48石川勝佐3等蚕業雇10等蚕事取扱15会津藩余市郡農
49守谷伊左衛門15
50太田所平15
51木村藤太15
52宮原しん5等蚕業雇10等見習8元斗南藩士琴似屯田兵宮原隆太郎妹8年10月札幌製糸場養蚕修業人
53三吉なか8開拓使官吏三吉笑吾妹9年1月札幌製糸場在場
54石川つね3等蚕業雇8会津藩士石川勝佐妻余市郡農
55竹内きよ5等蚕業雇8元徳島藩士竹内坂平娘静内郡農9年1月札幌製糸場在場
56木村とよ8余市9年1月札幌製糸場在場
57鈴木みな8琴似屯田兵鈴木長三郎妹8年6月札幌製糸場養蚕修業人
58但木まさ8琴似屯田兵但木敬治妹8年10月札幌製糸場養蚕修業人
59安斉とめ8上手稲村元士族安斉仁三郎娘8年11月札幌製糸場養蚕修業人
60百瀬りき8元斗南藩士琴似屯田兵百瀬千代次郎妹8年10月札幌製糸場養蚕修業人
61赤井たき8元斗南藩士琴似屯田兵赤井捨八妹8年7月札幌製糸場養蚕修業人
62県いと8元斗南藩士琴似屯田兵県左門妹8年10月札幌製糸場養蚕修業人
63小島うん6等雇10等見習6上手稲村元士族小島尚友妹8年札幌製糸場製糸修業人
64木場ふさ6元徳島藩士木場衛娘静内郡農
65渥味りう6会津藩士山鼻屯田兵渥味直茂姉9年8月札幌製糸場製糸修業人
66樋口るい6会津藩士山鼻屯田兵樋口八三郎妹9年8月札幌製糸場製糸修業人
67矢村えい6会津藩士山鼻屯田兵矢村健蔵長女
68大友とく6
開拓使公文録』(道文6147,6156,6159)より作成。

 なお、開拓使は、輸出可能な「優等糸」生産を目指して富岡製糸場から優秀な束糸工女を一日一円という高額な待遇で招聘するなど、技術改良にきわめて積極的であった(開拓使公文録 道文六一九八)。
 札幌製糸場は、十年七月六馬力トルヘイン水車を据付け、木製座繰に連結して第二製糸室とし、水力・蒸気の繰糸器械合わせて六〇座の装置となった。また十月には、製糸場構内に蚕種貯蔵室を設け、機織室を増築し製糸・機織部を合わせて紡織場とした。
 ちょうどこのような時期に、群馬県私立水沼製糸所派遣の二二人の伝習工女がそれぞれの出身地に帰国した。うち札幌郡や石狩郡出身の工女は、札幌製糸場の即戦力となったようである(当別町史)。
 十三年、これまで工女の寄宿舎に紡織場構外の建物を充ててきたが、紡織場内に一五三坪余の止宿所および賄所を三九八八円余で新築した。
 その後札幌紡織場は、十五年の開拓使廃止により農商務省北海道事業管理局に引き継がれた。この段階で製糸・機織部に働くもの一一六人が在籍しており、工女は九八人いた。うち製糸部の工女五二人の賃金は、表14のように日給三三銭から六銭までに分かれ、男工とは賃金においてもかなりの格差があった(紡織所麵粉所引継書類 道文七二六七)。
表-14 明治15年札幌紡織場(製糸部)給料人員
等 級工 男工 女
日給人員日給人員
1等 上50銭30銭1人
1等 中47281
1等 下45253
2等4024
3等372231
4等35221
5等302211
6等27201
7等251191
8等231181
9等201164
10等18156
等外1等151010
等外2等12814
等外3等1066
無等(製綿)331
人員計752
『紡織場麺粉所引継書類』(道文7267)より作成。

 器械製糸は最初盛んであったが、十五年、繭の産量が減少した段階で一旦停止し、座繰製糸のみとしたが、十八年、繭の産量が増大すると中等以上を器械で、下等を座繰としたので、器械製糸に熟達した工女が再び雇われた。そのなかに上白石村の大河内なか(当時二三歳)が日給一九銭で雇われている(札幌紡織場書類 道文九三二五)。すでに当時の労働条件は、賃金も開業当初のような特別待遇はなくなっていたらしい。勤務時間は、一日平均実働八時間半を標準とし、休日は毎日曜日のほか天長節などの祝祭日があった。紡織場では、出入りの激しい現業取扱人(紡織場の工男・工女のことを指し、ほとんどが一年契約)約七〇人を労務管理上男女別、製糸・機織部別に一〇人単位で一組とする組合組織にし、組長を置いた。また、貯金規約を設け、官員、給仕、小使以外の工男・工女にいたるまで、毎月給料の一〇分の一を貯蓄するよう義務づけ、満期解雇の際下渡す仕組になっていた。通勤工女もいたが、多くが紡織場内の止宿所に宿泊し、「工女寄宿所規則」により種々制約も受けたが、月曜日から金曜日までは夜一〇時まで読み書き、縫い物を習うことも許されていた(同前)。