伝習工女を各地へ派遣する一方、開拓使では八年四月、札幌浜益通(現北一条西八丁目)に札幌養蚕場を新築し、各郡移民男女三〇人および屯田兵家族二〇人を養蚕修行人として募った。これを受けて六月には琴似屯田兵の家族一七人が実際に応募している(開拓使公文録 道文六〇〇二)。
さらに同年八月には、札幌雨龍通(現北一条東二丁目)に製糸室、貯繭室、蒸殺室各一棟が新築され、木製座繰器械一六座を装置し、勧業課東京試験場より製糸工女一三人を招聘した。この工女らは、工女取締老婦一人、指揮婦一人、工女八人、手伝婦三人からなり、給料は月額一二円から七円の万事特別待遇であった。しかし、器械の車軸が度々折れたり、あるいは繰湯が適度に沸騰しなかったり事故が続出し、工女と残った繭を東京試験場に送って繰糸しなければならなかった(開拓使公文録 道文六〇四五、六〇八五)。
東京試験場工女の帰国後は、もっぱら屯田兵家族や各郡から募集の養蚕修行人によって座繰修行が継続され、翌九年三月には一八人の工女によって四石二斗七升五合の生糸が生産された(同前六一九〇、六二一五)。
九年五月開拓使は、製糸場に富岡模造の器械製糸二四座と蒸気機関六馬力一基とスウェーデン型繰釜を装置することにした。このため、水沼製糸所行き工女以外の富岡と福島・置賜の三カ所の工女を至急呼び戻すことが決定された。それと同時に勧業課東京試験場の工女二七人ほどを札幌製糸場に雇い入れることが決定した。
官営富岡製糸場および福島・置賜二県へは七月十五日付で開拓中判官西村貞陽が工女呼戻しの交渉にあたった。その結果富岡の六人の工女については、七月二十四日東京試験場雇入れの工女二二人と一緒に開拓使の官船玄武丸に乗船させて帰国させた。一方の福島・置賜二県の工女たちは、陸路青森経由で帰国させている(同前六一四七)。
札幌製糸場の新築落成開業式は、九年九月二十三日開拓長官黒田清隆をはじめ勧業課官員列席のもと行われ、蚕業婦(札幌製糸場での製糸工女の呼称)による模範繰糸も演じられた(同前五八三九)。
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写真-7 札幌製糸場新築開業落成式 明治9年9月23日(北大図) |
ところで、器械製糸の開業にあたり勧業課では、富岡模造の器械製糸は東京試験場雇入れ工女と伝習工女、すなわち「精選工女」があたることとし、従来の座繰製糸器械は「札幌修業人ニ習業」させることとした。そこで同年八月末段階に「蚕業男女等級給料」を決定した。表13は、新築落成当時札幌製糸場に在籍した蚕業男女の等級、賃金、出身、職歴等をまとめたものである。この表によると、在籍蚕業男女六八人中二二人は、東京試験場雇入れ工女で、上位六等までに格付けされ、開拓使派遣の伝習工女六人は、三人が四等に、三人が七等に格付けされているのがわかる。また、前年より札幌製糸場養蚕修業人に応募していた屯田兵家族等は、一〇等および一〇等見習に格付けされた。ところで、この表でもわかるとおり、官営富岡製糸場で技術伝習した工女が開拓使を含め一一人もいることは、開拓使が当時の最先端技術をもった製糸業を殖産興業政策の柱に据えていたことがうかがわれよう。また、水沼や福島・置賜の三カ所へ伝習工女派遣に際し常に「屯田殖産授産救育」を目的に掲げていたごとく、屯田兵の家族をもってその労働力に充てようとしていることも知られる。それのみならず、東京試験場雇入れ工女のうちに、たとえば一等蚕業婦新妻みななど三人が屯田兵家族であったり、同じく三沢とよ・遠藤はなのように、富岡製糸場から札幌製糸場へ移籍手続をとった工女もいた(旧開拓使会計書類 道文六五九九)。
表-13 札幌製糸場男女等級賃金表(明治9年8月) |
No. | 氏 名 | 旧等級 | 新等級 | 日給 | 出 身 | 職 歴 | |
1 | 芳賀むら | 指揮婦 | 工女世話方 | 銭 | 8年札幌製糸場在場 | 9年8月勧業課東京試験場より雇入れ | |
2 | 牧野せい | 検査工女 | 製糸検査婦 | 36 | |||
3 | 津田つね | 〃 | 〃 | 36 | |||
4 | 新妻みな | 1等工女 | 1等蚕業婦 | 32 | 元会津藩士山鼻屯田兵新妻富太郎姪 | ||
5 | 三沢とよ | 〃 | 〃 | 32 | 元青森県士族琴似屯田兵三沢毅娘 | 富岡製糸場御雇 | |
6 | 遠藤はな | 〃 | 〃 | 32 | 元青森県士族琴似屯田兵岩田英吉妹 | 富岡製糸場御雇 | |
7 | 有珠のぶ | 〃 | 〃 | 32 | 8年札幌製糸場在場 | ||
8 | 稲葉とめ | 2等工女 | 2等蚕業婦 | 31 | |||
9 | 津田ふゆ | 〃 | 〃 | 31 | |||
10 | 伴いく | 〃 | 〃 | 31 | |||
11 | 諸井えい | 〃 | 〃 | 31 | 8年札幌製糸場在場 | ||
12 | 高橋りつ | 2等蚕業雇 | 〃 | 31 | 元仙台藩士福井蓮娘・琴似屯田兵高橋寛妻 | 5年11月~8年12月富岡製糸場伝習工女 | |
13 | 市川とく | 3等工女 | 3等蚕業婦 | 29 | 9年8月勧業課東京試験場より雇入れ | ||
14 | 久保田よね | 〃 | 〃 | 29 | 8年札幌製糸場在場 | ||
15 | 水谷さく | 〃 | 〃 | 29 | |||
16 | 水谷きぬ | 〃 | 〃 | 29 | |||
17 | 池田わし | 〃 | 〃 | 29 | 元富岡製糸場工女 | ||
18 | 根津かつ | 4等工女 | 4等蚕業婦 | 28 | |||
19 | 榎本とよ | 〃 | 〃 | 28 | |||
20 | 菅野きそ | 富岡3等工女 | 〃 | 28 | 元士族上白石村菅野嘉敏長女 | 7年3月~9年7月富岡製糸場伝習工女 | |
21 | 大河内なか | 〃 | 〃 | 28 | 元士族上白石村大河内頼綱妹 | ||
22 | 今泉やえ | 〃 | 〃 | 28 | 七重村農今泉善太郎三女 | ||
23 | 鹿島ます | 4等工女 | 5等蚕業婦 | 26 | 9年8月勧業課東京試験場より雇入れ | ||
24 | 竹中たつ | 〃 | 〃 | 26 | |||
25 | 河原けい | 3等工女 | 〃 | 26 | 元富岡製糸場工女 | ||
26 | 新井とり | 4等工女 | 6等蚕業婦 | 23 | |||
27 | 井上正篤 | 蚕事取扱 | 6等蚕事取扱 | 23 | |||
28 | 石井孫兵衛 | 〃 | 〃 | 23 | |||
29 | 加藤きう | 富岡6等工女 | 7等蚕業婦 | 20 | 元士族上白石村加藤利道長女 | 7年3月~9年7月富岡製糸場伝習工女 | |
30 | 斎藤きん | 〃 | 〃 | 20 | 七重村農斎藤東十郎二女 | ||
31 | 松本とせ | 〃 | 〃 | 20 | 鷲木村農松本芳三郎長女 | ||
32 | 佐藤倫俊 | 3等蚕業雇 | 8等蚕事取扱 | 19 | 上手稲村農 | ||
33 | 遠藤堅守 | 〃 | 〃 | 19 | |||
34 | 赤塚志賀吉 | 〃 | 〃 | 19 | 元会津藩士余市郡農 | ||
35 | 安斉宝吉 | 3等蚕業雇 | 9等蚕事取扱 | 16 | |||
36 | 渡辺忠吉 | 〃 | 〃 | 16 | 元会津藩士余市郡農 | ||
37 | 大友恒之助 | 〃 | 〃 | 16 | |||
38 | 赤塚すて | 〃 | 10等蚕業婦 | 15 | 元会津藩士赤塚志賀吉娘 | 9年1月札幌製糸場在場 | |
39 | 遠藤まつえ | 〃 | 〃 | 15 | 元仙台藩士山鼻屯田兵遠藤徳之丞娘 | ||
40 | 佐藤しが | 〃 | 〃 | 15 | |||
41 | 山口ちよ | 3等雇 | 10等見習 | 10 | 札幌市中山口吉太郎娘 | 8年機織修業 | |
42 | 熊沢さわの | 〃 | 〃 | 10 | 上手稲村元士族熊沢金次郎娘 | 9年1月札幌製糸場在場 | |
43 | 半沢まさ | 〃 | 〃 | 10 | 上手稲村元士族半沢喜仙娘 | 8年機織修業 | |
44 | 守谷かつ | 〃 | 〃 | 10 | 元仙台藩士山鼻屯田兵守谷民治娘 | 9年1月札幌製糸場在場 | |
45 | 富田きく | 〃 | 〃 | 10 | 元松本藩士琴似屯田兵富田貞賢娘 | 8年7月札幌製糸場養蚕修業人 | |
46 | 太田てつ | 〃 | 〃 | 10 | |||
47 | 柴田とも | 6等雇 | 〃 | 10 | |||
48 | 石川勝佐 | 3等蚕業雇 | 10等蚕事取扱 | 15 | 元会津藩士余市郡農 | ||
49 | 守谷伊左衛門 | 〃 | 〃 | 15 | |||
50 | 太田所平 | 〃 | 〃 | 15 | |||
51 | 木村藤太 | 〃 | 〃 | 15 | |||
52 | 宮原しん | 5等蚕業雇 | 10等見習 | 8 | 元斗南藩士琴似屯田兵宮原隆太郎妹 | 8年10月札幌製糸場養蚕修業人 | |
53 | 三吉なか | 〃 | 〃 | 8 | 開拓使官吏三吉笑吾妹 | 9年1月札幌製糸場在場 | |
54 | 石川つね | 3等蚕業雇 | 〃 | 8 | 元会津藩士石川勝佐妻余市郡農 | ||
55 | 竹内きよ | 5等蚕業雇 | 〃 | 8 | 元徳島藩士竹内坂平娘静内郡農 | 9年1月札幌製糸場在場 | |
56 | 木村とよ | 〃 | 〃 | 8 | 余市郡 | 9年1月札幌製糸場在場 | |
57 | 鈴木みな | 〃 | 〃 | 8 | 琴似屯田兵鈴木長三郎妹 | 8年6月札幌製糸場養蚕修業人 | |
58 | 但木まさ | 〃 | 〃 | 8 | 琴似屯田兵但木敬治妹 | 8年10月札幌製糸場養蚕修業人 | |
59 | 安斉とめ | 〃 | 〃 | 8 | 上手稲村元士族安斉仁三郎娘 | 8年11月札幌製糸場養蚕修業人 | |
60 | 百瀬りき | 〃 | 〃 | 8 | 元斗南藩士琴似屯田兵百瀬千代次郎妹 | 8年10月札幌製糸場養蚕修業人 | |
61 | 赤井たき | 〃 | 〃 | 8 | 元斗南藩士琴似屯田兵赤井捨八妹 | 8年7月札幌製糸場養蚕修業人 | |
62 | 県いと | 〃 | 〃 | 8 | 元斗南藩士琴似屯田兵県左門妹 | 8年10月札幌製糸場養蚕修業人 | |
63 | 小島うん | 6等雇 | 10等見習 | 6 | 上手稲村元士族小島尚友妹 | 8年札幌製糸場製糸修業人 | |
64 | 木場ふさ | 〃 | 〃 | 6 | 元徳島藩士木場衛娘静内郡農 | ||
65 | 渥味りう | 〃 | 〃 | 6 | 元会津藩士山鼻屯田兵渥味直茂姉 | 9年8月札幌製糸場製糸修業人 | |
66 | 樋口るい | 〃 | 〃 | 6 | 元会津藩士山鼻屯田兵樋口八三郎妹 | 9年8月札幌製糸場製糸修業人 | |
67 | 矢村えい | 〃 | 〃 | 6 | 元会津藩士山鼻屯田兵矢村健蔵長女 | ||
68 | 大友とく | 〃 | 〃 | 6 |
『開拓使公文録』(道文6147,6156,6159)より作成。 |
なお、開拓使は、輸出可能な「優等糸」生産を目指して富岡製糸場から優秀な束糸工女を一日一円という高額な待遇で招聘するなど、技術改良にきわめて積極的であった(開拓使公文録 道文六一九八)。
札幌製糸場は、十年七月六馬力トルヘイン水車を据付け、木製座繰に連結して第二製糸室とし、水力・蒸気の繰糸器械合わせて六〇座の装置となった。また十月には、製糸場構内に蚕種貯蔵室を設け、機織室を増築し製糸・機織部を合わせて紡織場とした。
ちょうどこのような時期に、群馬県私立水沼製糸所派遣の二二人の伝習工女がそれぞれの出身地に帰国した。うち札幌郡や石狩郡出身の工女は、札幌製糸場の即戦力となったようである(当別町史)。
十三年、これまで工女の寄宿舎に紡織場構外の建物を充ててきたが、紡織場内に一五三坪余の止宿所および賄所を三九八八円余で新築した。
その後札幌紡織場は、十五年の開拓使廃止により農商務省北海道事業管理局に引き継がれた。この段階で製糸・機織部に働くもの一一六人が在籍しており、工女は九八人いた。うち製糸部の工女五二人の賃金は、表14のように日給三三銭から六銭までに分かれ、男工とは賃金においてもかなりの格差があった(紡織所麵粉所引継書類 道文七二六七)。
表-14 明治15年札幌紡織場(製糸部)給料人員 |
等 級 | 工 男 | 工 女 | ||
日給 | 人員 | 日給 | 人員 | |
1等 上 | 50銭 | 人 | 30銭 | 1人 |
1等 中 | 47 | 28 | 1 | |
1等 下 | 45 | 25 | 3 | |
2等 | 40 | 24 | ||
3等 | 37 | 2 | 23 | 1 |
4等 | 35 | 22 | 1 | |
5等 | 30 | 2 | 21 | 1 |
6等 | 27 | 20 | 1 | |
7等 | 25 | 1 | 19 | 1 |
8等 | 23 | 1 | 18 | 1 |
9等 | 20 | 1 | 16 | 4 |
10等 | 18 | 15 | 6 | |
等外1等 | 15 | 10 | 10 | |
等外2等 | 12 | 8 | 14 | |
等外3等 | 10 | 6 | 6 | |
無等(製綿) | 33 | 1 | ||
人員計 | 7 | 52 |
『紡織場麺粉所引継書類』(道文7267)より作成。 |
器械製糸は最初盛んであったが、十五年、繭の産量が減少した段階で一旦停止し、座繰製糸のみとしたが、十八年、繭の産量が増大すると中等以上を器械で、下等を座繰としたので、器械製糸に熟達した工女が再び雇われた。そのなかに上白石村の大河内なか(当時二三歳)が日給一九銭で雇われている(札幌紡織場書類 道文九三二五)。すでに当時の労働条件は、賃金も開業当初のような特別待遇はなくなっていたらしい。勤務時間は、一日平均実働八時間半を標準とし、休日は毎日曜日のほか天長節などの祝祭日があった。紡織場では、出入りの激しい現業取扱人(紡織場の工男・工女のことを指し、ほとんどが一年契約)約七〇人を労務管理上男女別、製糸・機織部別に一〇人単位で一組とする組合組織にし、組長を置いた。また、貯金規約を設け、官員、給仕、小使以外の工男・工女にいたるまで、毎月給料の一〇分の一を貯蓄するよう義務づけ、満期解雇の際下渡す仕組になっていた。通勤工女もいたが、多くが紡織場内の止宿所に宿泊し、「工女寄宿所規則」により種々制約も受けたが、月曜日から金曜日までは夜一〇時まで読み書き、縫い物を習うことも許されていた(同前)。