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士族授産

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 琴似・山鼻両兵村に始まる屯田兵制は、試行錯誤をくり返しながらも札幌市街を取りまく開拓実績として評価されるようになった。この間、実状に適応させるため明治七年(一八七四)制定の屯田兵例則を補訂し、外国の類似制度と比較研究をすすめた。たとえば、十年ロシアにおもむいていた榎本武揚全権公使にコサック屯田の授産資料の収集を頼んだり、十二年永山武四郎琴似兵村山田貞介山鼻兵村渡部勝太郎を同伴させ、ロシア領カムチャツカの開拓状況を視察させたりした。
 兵村を所管した開拓使は十五年に廃止となり、陸軍省へその管轄を移し、札幌県を経て北海道庁ができると、所管は陸軍省のままだが現地窓口は道庁になった。陸軍省は屯田兵例則の大幅修正を含め鎮台設置までの屯田兵制改革案を検討する過程で、当面中断していた江別・篠津兵村の補充にとりかかり、後日の野幌兵村開設とあわせて札幌市街東部を占める兵村の完成をめざした。
 開拓使廃止後の国内状勢は兵制発足時と大きく変わりつつあった。デフレ財政策は急激な物価下落をまねき、農村の分解が進み、旧武士たちの生活は秩禄処分を経て窮乏の一途をたどった。国内先進地といわれるところの士族ほど困窮度は早く厳しかったから、西日本の士族授産対策が急務となっていた。政府は毎年五〇万円を士族勧業資金として支出し、その内一五万円は北海道移住希望者に貸与することにし、困窮士族の北海道開拓と生計の安定をねらいとした官営士族移住事業を実施したが、この事業を屯田兵制に包括再編することになり、十七年から予算を一体化した。実施計画を検討した屯田事務局は同年五月、すべて「現時取行居候屯田兵規則ヲ襲用」してこれにあたることとし、二十一年までの五年間に一〇四一人(家族を含め四一六四人)の屯田兵を士族のみから募集することになったのである。但し一年遅れて実施したので二十二年まで延長し、ここに屯田兵制の新しい展開の素地が生じたといえる。
 なお、この計画の具体化にともない、札幌、函館、根室の三県令をはじめ、全国の知事県令から、さらに多数の貧窮士族を移住させる大規模な屯田兵拡張要請や、全国府県に分配している士族勧業資金を屯田兵費用に一元集約すべきだという意見などが出されたが、この時点で政府の認めるところとならなかった。