クリスチャンが伝道以上に市民に対して幅広く行った活動としては、義捐活動や社会改良運動などの社会活動と、女子教育・幼児教育・日曜学校などの教育事業があった。この時期の義捐活動の例として挙げられるのは、大正三年の凶作農民救済運動であろう。米の収穫などが三万石台、前年の一六分の一にとどまった大正二年の大凶作に対しては、全道的に救済活動が起こったが、『北海タイムス』では十二月二十四日のクリスマスイブに、「宗教家を促す」との一文を掲げ、「彼等にパンを与へ然して彼等の精神を健全ならしめざる可からず」と宗教界の奮起を促した。区内の諸教会は、すでにこの年のクリスマス行事の費用を節約して質素にし、凶作農民の救済に醵金しようとしていた。また年末には酪農家牧長三郎・黒沢酉蔵らの奔走で、札幌基督教徒凶作救済会を結成し、凶作地の視察など救済活動を起こそうと準備をしていた。
救済会の義捐活動は三年一月から始められた。札幌では市街を数区に分け、音楽隊を先頭に各教会の信徒が白袋を持ち、辻々で実情報告を演説し、軒並み戸別訪問をして義捐金や米麦などの寄付を募った。一週間にわたる活動だけでも、義捐金・米麦など九四二円相当と多数の衣類が寄せられた。これを契機に、救済会は義捐活動を道外にも及ぼし、また農科大学基督教青年会も募金のために音楽会を開催した。この組織的な街頭活動は、市民にクリスチャンの存在を一層印象づけるものとなり、これに刺激されてか、仏教界・教派神道(神道分局)もまた救援活動を起こしたという。
社会改良運動では、最も精力的に展開されたのが禁酒運動であった。北海禁酒会の活動については前巻(第六編六章三節三)でも触れたが、明治三十八年以降一時停滞したあと、大正九年一月に高杉栄次郎・宇都宮仙太郎らが主唱して札幌禁酒会を再建した。札幌の再建に促されて、三月には北海道聯合禁酒大会が開催され、活発な活動の時期に入った。
禁酒運動では、禁酒会のほかに札幌婦人矯風会の活動があった。同会は大きな団体ではなかったが、アデライド・ドーデー宣教師らによって集会を継続的に開いていた。明治三十六年、世界キリスト教婦人矯風会の特派員カラ・G・スマートの遊説を札幌でも迎え、市民に禁酒を訴えた。同会は大正二年八月に日本基督教婦人矯風会札幌支部として発会式を挙げた。
なお北海禁酒会の事業として位置づけられていたJ・バチェラーによる施療施設アイヌレスツハウスは、資金難から明治三十七年に事業を中断、四十年に建物も取り壊された。札幌のアイヌは離散し、聖公会においても札幌のアイヌ伝道は困難となった。
禁酒会運動の中から社会改良運動へ進む人びとが出て、明治三十五年に竹内余所次郎(よそじろう)・前田英吉らが社会問題研究会を組織した。このメンバーから前述の日露戦争に対する非戦論が主張された。そのほか四十年、逢坂信忢(おおさかしんご)・大石泰蔵ら農科大学生によって社会主義研究会が発足した(詳細は六章四節三参照)。
クリスチャンの中から起こされた社会主義運動や労働運動は、キリスト教界内部にもこれらの問題の重要性を提起した。例えば大正八年に佐藤昌介が、「基督教の新使命」と題して述べた札幌基督教同盟発会式の祝辞にも、この問題がキリスト教界として避けることのできないものとして取り上げられている。佐藤はここで「世界改造の問題」として「資本家と労働者の調和問題」を取り上げ、「基督は由来弱者の友であった」との前提で、「公平なる(富の)分配をなすべき機会の均等」を求めて「其解決を進めなければならない」(北光 第六二号)と述べた。しかしおそらくいずれの教会も、社会主義運動や労働運動がそのまま教会の活動に連動しなかったと思われる。
組合教会の『北光』紙上でも、たびたび社会問題としての労働問題を取り上げているが、例えば牧師の海老沢亮(えびさわあきら)の視点は「労働神聖」の立場からのもので、労働者のストライキには疑問を呈し、兄弟愛的デモクラシーの実現(神の国)による世界改造を行うという主張であった(大8、第六八号 社会問題の解決)。またカトリックの『光明』でも、大正九年~十年に「労働問題」を一二回にわたって連載したが、ここでも労働の高貴が強調され、「最短時間に於ける最高の労金」との主張に対しては「公教の立場に於いては決して同意することは出来ぬ」(第二六三号)と退けた。
各教会は、労働問題を課題と受けとめつつも、これを現実に解決すべき運動の基盤を教会の中に持っていなかった。大正十二年のメソヂスト東部年会の北海道部会報告で、「工業方面は殆んど吾基督教に触れて居らぬ有様」(日本メソヂスト教会第十六回東部年会記録)というのは、メソヂスト教会の事情ばかりではなかったであろう。