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『北方文芸』創刊

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 昭和十六年五月、札幌市南三条西六丁目の北海道文芸協会から『北方文芸』が創刊された。当時の日本は日中戦争の戦線拡大に伴う国際社会での孤立を深め、国内では国防思想が強化されつつあった。『北方文芸』の創刊が憂国運動として起こったことは「創刊の言葉」を書いた山下秀之助の文章にあらわれている。
我々は文学の新しい展開を通して明日の日本文化の昻揚に力強く寄与すると同時に飽く迄も北方の地域的特殊性を厳しく探求して我々の仕事の意義を確立したいと念願する。それは取りも直さず現今の高度国防国家が要請する北方文化の建設への積極的参加に外ならぬのである。従つて我々は単に自己の恣意を満足せしめる従来の文学態度を捨離して高邁な文章報国の理念に徹底せんことを期してゐる。そのために我々は外観の壮麗を敢えて求めず、北方特有の堅忍不抜の精神を以て地道に、しかも弛まず、この高い目標に向って今後の長い道程を歩まねばならぬ。

 この中の「文章報国」という表現に注目すると、東京で昭和十七年五月に創立された日本文学報国会を一年前に先取りしていたことがわかる。これは北海道に限ったことではないが、憂国の思想は辺境の村落共同体を基盤として発生することを証明していた。創刊号の同人四九名のうち三分の二が札幌在住者であった。主な顔ぶれをジャンルごとにみると、創作、劇作部門に早川三代治、松尾正路、吉田十四雄、林容一郎、中津川俊六、古宇伸太郎、西村真吉、関口二郎、八条志馬、辰木久門、西田喜代司、佐貫徳義など。歌人の山下秀之助、斎田丑之助、菅忠淳、八子忠彦、鬼川俊蔵、戸塚新太郎。詩人では伊藤秀五郎、加藤愛夫、更科源蔵、渡辺茂、河原直一郎、五十嵐重司、工藤昇、桜庭幸雄、原口伊三郎、山野康蔵、小野連司、浅沼君子、小田邦雄。俳人に中村春台子、金崎葭杖、山下武平、天野宗軒、鈴木白歩、平塚甫などの名がある。
 創刊に至るまでの経緯について、更科源蔵は『札幌放浪記』(まんてん社、昭47・11)で次のように書いている。
昭和十五年の秋は暗かった。そんなある日『北海タイムス』(『北海道新聞』の前身)の文化部長だった詩人の河原直一郎さんと、同じ詩人の岩見沢の加藤愛夫さん、それから『小樽新聞』の小島正雄さん達と、「そろそろ北海道にも綜合的な文芸雑誌をつくろうではないか」という相談がまとまり、「キャップには紳士をもって来よう。そうでないと喧嘩になるから……」というので、白羽の矢を札幌鉄道病院長の歌人山下秀之助氏にたてた。創立総会はグランドホテルの地下食堂であったと思う。

 二号は昭和十六年十月に刊行された。「編集後記」で林容一郎は「われわれは他人の尻馬に乗つて『新体制ヤーイ』をぬけぬけと口にする気にはなれない」「時局迎合の御都合主義によつて何等かの足溜まりを得やうとするが如き卑屈な態度は断じて採らない」と骨のあるところを見せている。しかし二号が出たあとで文芸中心の協会の弱体性が問題にされ、北海道の文化一般に向かって門戸を開くことが確認され、科学、経済、歴史、美術、音楽ばかりでなく農漁村の生活文化をも採り入れることになった。音楽の伊福部昭田上義也鈴木清太郎、美術の能勢真美、高木黄史、山根策雄、山田義夫、学者の高倉新一郎、谷口国次、河野広道などが新たに参加し、地方在住の坂本直行、水島宣、水島久子、山下愛子なども加わった。文学同人もさらに拡大して東文彦、相良義直、田辺杜詩花、小田観螢、鮫島交魚子、石田雨圃子、小野重吉、石川一遼、和田徹三、枯木虎天など総勢百数十人を擁し、北海道の文化運動を推進するほとんどの人たちが結集することになった。
 三号は太平洋戦争勃発の昭和十六年十二月に刊行された。高倉新一郎北海道文化の特徴」、田上義也北海道と建築に関して」などの論文が載り、牧屋善三の寄稿「歴史と文学」、更科源蔵「コタン童話集」、古宇伸太郎、永沢茂美、中津川俊六の創作などが発表された。四号は昭和十七年五月に発行され、巻頭言に「南進! 南進!」「北に還れ! 各自其の倚るべき時と処とを忘れずに、莞爾として北の砦につけ! いま北方文化の確立と言ひ、北方文学の錬成と呼ぶ、その言やよし。南十字星よく南海を領するも、北斗の星座儼として援くるなくんば何の意義かある!」というように戦意高揚が前面にうちだされ、谷口国次「新文化創建の主体性」、伊藤秀五郎北海道の文化的使命」などの論調も戦時色が濃い。四号の創作は吉田十四雄の「集団」という農民文学である。
 昭和十九年二月に八号を出して廃刊となった『北方文芸』の収穫を列挙すると、五号(昭17・9)の創作に古宇伸太郎「馬頭観音」、西田喜代司「転生」、林容一郎「函館戦争」、六号(昭17・12)の創作辰木久門「鷹公召さる」、中津川俊六「北方」、七号(昭18・9)の評論笠井清「北方演劇史覚え書」などがある。