「美術報国」を旗印に、札幌在住の楚人社の能勢真美らが中心になって、昭和十三年六月に札幌美術家聯盟が結成され、一日から十三日まで中島公園農業館で同展が開かれる。道展は戦時色を増し、第三回講習会は「シャベルを画筆に持ちかへたまさしく美術北海道の勤労的集団行動」と報じられる(北タイ 昭13・8・3)。十三年度(第一四回)に道展は、五五点の皇軍郷土部隊慰問献画、札幌陸軍病院への彩管慰問、道庁とタイアップして正月の前線への絵葉書慰問と、時局に合わせた活動をする(道展四十年史、北タイ 昭13・11・30)。
表4は日中戦争後の戦争関係美術展覧会であるが、十三年六月二十三日から二十七日まで、札幌で最も早く、「支那事変従軍画家展覧会」が海軍協会主催、海軍省後援で三越で開催される(北タイ 昭13・6・22)。この六月末には、中央で大日本陸軍従軍画家協会が結成される(丹尾安典他 イメージのなかの戦争)。
表-4 戦争関係美術展覧会 |
タイトル | 主催者 | 開催期間 | 会場 |
児童防空作品展 | 道庁防空課,札幌聯隊区司令部 | 昭13. 3.10~13 | 丸井 |
田辺三重松北方従軍油絵個人展 | 昭18.11.25~28 | 三越 | |
『北タイ』,『道新』,『札幌の絵画』(さっぽろ文庫17),今田敬一『北海道美術史』より作成。 |
昭和十四年十一月三日に豊平館内に聖徳記念館ができ、澤枝重雄「明治九年七月十六日、明治天皇鹵簿、函館英国領事館前通御ノ図」、林竹治郎「明治十四年九月一日、明治天皇、札幌農学校生徒ノ理化学実験天覧ノ図」、能勢真美「昭和十一年九月三十日、今上陛下拓北農場御巡覧ノ図」、本間莞彩「明治四十四年八月二十八日、皇太子殿下、豊平橋御通過ノ図」(写真8)が飾られる(札幌市役所 聖徳記念豊平館紀要、パンフレット 聖徳、能勢真美展)。本間莞彩は、宮内省主馬寮や近衛騎兵隊に取材して、明治四十四年の皇太子嘉仁の馬車が豊平橋を渡る絵を再現する(北タイ 昭14・10・12)。聖徳記念豊平館の十五年度の延べ拝観人員は五五二五人であった(札幌市事務報告 昭15)。
写真-8 本間莞彩 皇太子殿下豊平橋御通過の図(昭14)
昭和十五年八月二十日から二十五日まで、三越で聖戦美術展が開かれる(主催は陸軍美術協会、軍人援護会道支部)。この展覧会は、日中戦争勃発二周年を記念して、前年七月に東京府美術館で行われ文展以上の盛況をみせた、その巡回展である。会長は、南京虐殺事件の責任者の松井石根大将、副会長は藤島武二。藤島武二は、陸軍美術協会が出した豪華画集『聖戦美術』(昭14・11)の序文で、従来戦争画に優秀なものがなかった歴史的経緯を述べ、事変を記念する報告書、国民の精神の作興、芸術品としての存在価値、の三つの役割を説く。戦争画は、十五年戦争を通じて全体に洋画が活発であった。ここでは洋画は向井潤吉「甦民」、小磯良平「南京中華門の戦闘」など、日本画では小早川秋聲「日本刀」などが展示された。
この頃、札幌の冨貴堂をはじめ全道の画材商でキャンバスが払底するが、画材が入手困難となるなか、戦争協力の従軍画家には潤沢な画材が提供されたという(北タイ 昭15・8・16、司修 戦争と美術)。国松登も陸軍報道奉公隊に入らないとキャンパスや絵の具の配給が得られなかったと回想する(私の中の歴史)。
昭和十七年二月には「郷土美術工芸作品の健全な育成」を目的とする札幌市美術工芸協会が三沢市長を会長に組織され、三月二日に今田敬一が郷土美術に関する講演会を行う(北タイ 昭17・2・11、3・3)。創立会員は、洋画では今田敬一ら六人、日本画は本間莞彩、高木黄史の二人、版画一人、木工品五人、写真六人、木工竹細工一人、陶磁器二人の計二四人であった。十七年六月二十四日からの第一回札幌市美術工芸協会展(於丸井)に、本間莞彩は「聖徳記念館」「冬」を出品している(北国の叙情、本間莞彩)。
第二回聖戦美術展(東京では十六年七月)の巡回は、十七年六月九日から十七日まで、丸井百貨店大ホールで行われ、「仰望の人波引きも切らず」であった(北タイ 昭17・6・10夕)。二百号の大作の小磯良平「娘子関を征く」や藤田嗣治「ハルハ河畔戦闘図」といった、戦争画を代表するものが並べられた(北タイ 昭17・6・10夕)。松田文相の改組によって一九三七年(昭12)に設立された帝国芸術院は、敗戦までの間に洋画で二点だけ、戦争画に帝国芸術院賞を与えている。それがこの小磯の「娘子関を征く」と宮本三郎の「山下・パーシバル両司令官会見図」(昭17)である。
この聖戦美術展の折、東京美術学校助教授の伊原宇三郎は『北海タイムス』で「戦争と美術家」と題し、「従来絵画が受けて来た有閑文化財の譏は一面からみれば当然の事」とし、画家の態度が変わった原因として、画家に戦場で働く機関が与えられ、銃後の士気を鼓舞し、また戦争の記録として後世に残るといった点をあげる。東京・京都の文展がせいぜい四、五万人の観客動員であるのに対し、聖戦美術展は各地で一〇〇万人を超える入場者を誇った(北タイ 昭17・5・29)。伊原は若くして帝展特選を連続してさらい、ピカソの新古典主義時代の影響を受けて来た。しかし戦時下には時流に迎合し、かつての師であるピカソに対し枢軸国のもつ強い力に魅力を感じなかったと非難した。この伊原の言説について、司修は「独裁者の強い力にみせられる画家が戦争画を描くのは当然な結果」と評する(戦争と美術)。
新聞に載った、戦争画を絵画として批評・鑑賞することを諫める、ある帰還兵の発言に接するとき、芸術を超え、「御真影」にも似たひとり歩きを感じる(北タイ 昭17・6・16)。
昭和十七年十二月十三日、北海道翼賛芸術聯盟の傘下に北海道美術報国会が成立する(北海道美術史)。会長は北海道翼賛芸術聯盟会長、副会長は中根光一、今田敬一、理事長は能勢真美であった。目的には、「美術報国の精神に基き、本道における翼賛文化に寄与する」ことをうたった。
北海道美術報国会の事務局を自宅に置き、陸軍美術報公隊の札幌地区隊長も勤めた能勢真美の戦時下の役割は大きい。『道展四十年史』は、「戦時下の美術活動は、万事能勢真美に負うところが多かった」とする。十七年五月に第一回北海道海洋美術展覧会が、海軍主催で開かれるが、能勢は今田敬一、国松登、本間莞彩らとともに道展会員として鑑審査委員をつとめる。北海道海洋美術展覧会は二十年まで毎年、海軍記念日(五月二十七日)を中心に行われた。また北海道美術報国会旭川支部および旭川師団報道部がすすめた「撃ちてし止まむ」聖戦美術展覧会に能勢は、十八年の第一回から毎年出品する。旭川師団では画題を提供するために実戦さながらの戦闘演習を実施した。そして能勢は、二十年の敗戦を、国松登、大月源二とともに従軍画行中に、エトロフ島で迎える(能勢真美展)。
北海道海洋美術展の鑑審査委員はすべて道展会員であり、かつ北海道美術報国会のほとんどが道展会員であった戦時下の状況をみるとき、道展が北海道庁長官を会長にいただき、官の威光を背景に成立した当初の性格は、時局への迎合に素早いその後の軌跡を物語る。
東京美術学校の伊原宇三郎が、みずから何ら戦時下の総括を行わないまま、戦後日本の美術行政の中心に座ったと同じことが、札幌の美術界についてもいえるだろう(戦争と美術)。