[解説]

浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い
小諸市古文書調査室 斉藤洋一

 次の3史料は、かつて小諸市立火山博物館が所蔵していたもので、現在は小諸市立郷土博物館に所蔵されている。
 ・天明3年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印
 ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
 ・天明3年12月10日 浅間山焼けにより小物成免除願い
 3点とも、岩村田宿(長野県佐久市)で作成された(あるいは岩村田宿で作成されたと推定される)ものなので、一括して解説する。ちなみに岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、沓掛宿・追分宿(以上の軽井沢三宿は軽井沢町)・小田井宿(御代田町)をへて岩村田宿にいたる。次の宿場千曲川に面した塩名田宿(佐久市)である。また、江戸時代中期以降は、岩村田藩内藤氏一万五千石の陣屋が置かれたところでもある(内藤氏には、ほかに分知千石があった)。
 史料2は、浅間山が大噴火して北麓の鎌原村(現群馬県吾妻郡嬬恋村)をはじめとする広い地域に大被害を与えた天明三年(一七八三)七月八日からわずか一週間後の七月十四日に作成されたもので、最初に岩村田藩役所からの申し渡しが記され、その後に申し渡しを承知したと記され、岩村田宿商人が連判している。つまりこの史料は、藩の申し渡しを承知したとする請書になる。
 では、藩から何を申し渡されたか。このたびの浅間山の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、浅間山近辺の村々が難儀している。そのような時に、米穀などを買い占め、高値で売ったりすることのないようにと、三宿から幕府御影代官所へ願い出た。そのことを、同代官所から隣領である岩村田藩へ知らせてきた。ついては岩村田宿においても、そのようなことをしないように商人へ申し渡す、と記されている。軽井沢三宿をはじめとする浅間山近辺の村々が、浅間山の大噴火で困っていたこと、そこから米穀をはじめとする商品の買い占めや、高値販売の動きを抑制しようとしていたことが読みとれる。
 実際、この年は冷害も加わり不作となった。そのため信州から上州へ送られる米が通常より減少し、それは信州の米商人らが買い占めをしているからだと考えた西上州の農民が「米よこせ」と叫んで信州へ押し寄せ、佐久・小県地域を席巻した、いわゆる「上信一揆」も起こっている。
 史料5は、前欠で、かつ上端・下端が破損し、本文も一部破損していり痛みの激しい史料で、史料の全体を知ることはできない。しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。すなわち、大噴火によって用水路へ濁り水が流れ込み、用水に困った村や、用水路が大破し、自力では修復できない村があったこと、黍をはじめ畑作物が不作だったこと、米も不作が予想されたこと、浅間山大噴火の際、麓の村々から逃げ出してきた人々を支援したことも現在の難儀の一つの理由となっていたこと、などである。こうしたことが重なって、「大難儀」しているので、藩の支援をお願いしたいと、八月二十三日付で藩へ、領民・分知領民が願い出たのが、この史料になる。
 史料6は、天明三年十二月十日付で、岩村田町の名主・組頭・百姓代が連名で藩へ願い出たものである。では何を願い出たか。史料によれば、岩村田町は入会で浅間山山麓から馬草・刈敷・薪などを採取してきた。そのいわば利用料として、毎年山役銭十六貫二百文を上納してきた。しかし、今年の六月中旬より浅間山がたびたび噴火して山麓へ石砂が降り、薪などを採取することができなくなってしまった。そのため薪などが不足して困っている。かつ今年は凶作で生活にも困っている。農民はそのような状態なので、小額であっても、山役銭を負担することは難儀である。ついては、山役銭の上納を免除してもらいたい、という。つまりこの史料は、山役銭の上納免除願いということになる。
 この史料から、浅間山麓で薪・刈敷などを採取していた佐久地方の農民たちが、大噴火後山麓へ入れなくなって困っていたことを知ることができる。