[現代訳]

 「寛保二壬戌年八月朔日
  与良右兵衛筆記
  『小諸洪水流失改帳の写』
        (与良町小山隆司家文書
一 寛保2年7月28日は大雨、29日は夜9時すぎから雨が降りだし、法圓房沢の所どころが崩れ、濁り川(蛇堀川)が氾濫し、与良町大橋が流失した。水の高さは約10メートル、川幅は11メートルほどになった。
一 8月1日は晴天だったが、浅間山前掛山付近の山が崩れ大洪水になった。朝9時頃、北山の方向が強く揺れ、にわかに曇り、上流から土石流が成就寺あたりに流れこみ、六供田町本町大手門足柄門三ノ門馬場裏袋町、押兼五郎左衛門屋敷庭より裏門塀を押し流した。馬屋の外塀、中間部屋も流され、三ノ門西南北谷に水が流れ落ちた。
江戸の藩邸に連絡するため二日に飛脚を送ったが、道中ところどころ水害のため難儀し、ようやく七日に使いが到着した。とりあえず口頭で報告した。
 (中略)
 
    覚
 御家中の流家半流潰家は11軒、下目附から御与御中間まで流家17軒、合計38軒である。
 流死は昨日までで侍身分の妻子や足軽以下中間ならびにその者たちの妻子家中召仕ら77人である。今後流死者は増えるかもかもしれないが、今後十分調査できるかわからないので昨日までの数字をまずお伝えする。
 町の流家潰家の数もようやく一通り確認したが、これもとりあえずのものでたしかとはいえな。町の流家は合計242軒、死者324人、死馬は14疋である。
武家と町方と合わせて流家は280軒だが、この中には半流のものもある。
流死者は武家・町人合わせて男女401人だが、旅人などよそ者は除いてある。
 八月十三日
 (下略)