真田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍の攻撃をしのぎ切ることもできた。さらに前項で見たように昌幸は、秀吉より天正十三年(一五八五)十一月十九日付け書状で家康を武力討伐する方針を直接告げられたものだった。これをうけて昌幸は、十二月から翌年三月にかけて盛んに敵地についての宛行(あてがい)状を発給している。それも神尾宛てのもの(写真)のように佐久郡の地を給するとしているものが多い。佐久は徳川方の依田(芦田・松平)氏領であったが、「佐久郡本意に至っては」と断っているものもあるように、いずれも約束手形とみてよい。それにしても佐久を攻め取るつもりでいたのではあった。
<史料解説>
天正十四年(一五八六)二月十六日
昌幸がこの頃盛んに出した敵地についての宛行状の一つ。これも佐久郡芦田の内…と具体的だが、やはり徳川勢力下の佐久を攻め取ったら、という前提のつく約束手形とみられる。なお、現在は宛名部分が欠損していて「神」しか見えないが、昔の写しにより宛名は判明する。この神尾は遠州の出身で武田氏の家臣となり染屋(上田市)に屋敷を与えられ「海野(うんの)衆」の一員となっていた者で、生島足島神社蔵の武田将士起請文にもその名が見える。武田氏滅亡後、真田氏に仕えたわけだが、慶長五年に昌幸が失脚して、信之(信幸)の代になってからは真田家を辞した模様で、江戸時代はその出身地の名をとった「遠州屋」という上田城下町の商人になっていた。