日本人人種論

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 日本石器時代人の人種論は、清野謙次らの著書に詳しいが、現在では形質人類学によって、時代と環境によって骨格が変わることが研究例で見直されてきたため、貝塚形成の縄文人に関しては、なぞが解かれていない。日本石器時代人種論が活発になったのは明治時代以降で、アイヌの伝説にあったコロポックル説とアイヌ説に端を発している。大森貝塚人についてミルンアイヌ説をとり、モースアイヌより前にいた人種、すなわちプレアイヌ説をとった。明治19年東京大学に坪井正五郎を中心とする東京人類学会が設立されたが、この学会は後に日本人類学会と改称され、日本における人類学と先史学研究に貢献した。東京人類学会ができた際、坪井はコロポックル説を主張した。コロポックルの名称は、天明5(1785)年から6年にかけて蝦夷地を調査した最上徳内が文化5(1808)年に刊行した『渡島筆記』に「コロボクウングルといふものあり、これもいにしへの人にして、時世いつたることを失ふ。コロボクウングル仔細に唱ふればコロボッコルウングル也。又ボク実はボキ也、コロとはふきの葉也。ボキは此にボッと略称す。ボキは下といふことなり」とある。すなわちコロポックルとはふきの葉の下にいる人の意味であり、アイヌ間に伝説として伝えられる小人種のことである。これに関する最も古い記録は、万治3(1660)年2月に伊勢松坂の船が鳥羽を出帆して暴風のため洋上を漂うこと7か月、千島に漂着し、翌寛文元年9月に江戸へ帰帆した漂流船員の記録である『勢州船北海漂流記』に見える。それには「蝦夷人物語申候は小人島より蝦夷へ度々土を盗みに参り候、おどし候得ば其儘(まま)隠れ、船共に見不申候由、蝦夷より小人島迄航路百里も御座候由、右の土を盗みて鍋にいたし候由、尤せい(背)ちい(小)さくして小人島には鷲多く御座候て、其人通り候得ば鷲に取られ申候。又大風に吹ちらされ申候故、十人計り手取り合ひ往来仕候由、蝦夷人語り申候。以上」とあり、この小人が土で鍋を作っていたことが記されている。この伝説は『蝦夷島奇観補注』(松前志摩守徳広)や『蝦夷図説』(山田金銀軒)にも抜書きされていて、要約すれば、漁猟に優れた術を持ち、土の家に住み、アイヌの家の窓に鳥や獣の肉を置いて行く。そこでこの優れた漁猟術を教えてもらおうとするとどこかへ姿を消してしまった。女性は極めて美しく、手にはさまざまな文様の入れ墨がしてあった。この人たちの住んだところがあちこちにあって、陶器のかけらや玉の類などの宝物が掘り出されることもある。などと書かれていて、前記の記録と多少の違いが出てくる。一方において東京人類学会の中にも坪井の説に反論する動きが起こった。明治20年の『人類学雑誌』に白井光太郎が「コロボックル果して北海道に住みしや」とアイヌ祖先説を発表し、次いで「コロボックル北海道に住みしなるべし」を発表した。これに対して神風山人は「コロボックル果して内地に住みしや」と提論し、更に「コロボックル内地に住みしなるべし」というふうに論争が続いた。坪井は明治20年に北海道を調査しているが、東京大学に新設された医学部解剖学教室の小金井良精は、明治20、21年の両年にわたり北海道のアイヌの骨格を人類学的に研究し、貝塚人骨と比較して内地に貝塚を残したのはアイヌの祖先であるとした。論争の発端は『人類学雑誌』1巻1号の渡瀬荘三郎「札幌近傍ピット其他古跡の事」にあったようであるが、小金井の報告は「北海道石器時代の遺跡について」と「本邦貝塚より出づる人骨について」の2論文で、坪井は小金井のアイヌ説に対しても、「小金井博士の貝塚人骨論を読む」を発表して反論している。またコロポックル批判は北海道においても厳しく論議された。その模様は明治39年6月に発行された『札幌博物学会会報』第1巻第1号、河野常吉「チャシ即ち蝦夷の砦」の″コロポックル説の誤謬(ごびゅう)″や同会報第1巻第2号のジョン・バチェラー「コロポッグル即ちエゾの竪穴住居」と河野常吉「非コロポックル論」にうかがわれる。バチェラーは明治34年に『アイヌ人及其説話』の中で「アイヌは始め日本全国に居住す。富士山はアイヌの称呼なり。アイヌ蝦夷に駆逐せらる」とか、「所謂穴居人及アイヌ人も皆石器時代に住居せし者にして其時代は遙か隔りたる古昔にあらざる時代なりと信ず。」と述べ、『札幌博物学会会報』ではアイヌは竪穴に住み土器を造り、黒曜石製の小刀を用いていたとコロポックル説に反論している。河野は、「本島アイヌは竪穴に住せり」、「本島アイヌはチャシを使用せり」、「本島アイヌは石器、土器を使用せり」、「本島アイヌ樺太アイヌ、北千島アイヌは同人種なり」、「実地調査せる人々は多くコロポックル説を否認す」、「コロポックルはアイヌの小説なり」と坪井批判に及んでいる。
 北千島を調査した鳥居龍蔵は「北千島の石器時代遺跡は現今居住のアイヌのもので、しかもこの遺跡は現今の彼等との連続である」とアイヌ説を主張した。坪井の没後は小金井説が優勢となり、大正から昭和にかけて貝塚の埋葬人骨が盛んに発掘された。こうした一連の発掘によって得られた人骨測定などの結果、アイヌ説が補強されて定説化したが、清野謙次の『日本原人の研究』(大正14年)には、7年間に石器時代人骨559例、古墳時代人骨31例が収集されたことが報告されており、古代人骨の計測計算による日本人種の生成論が打出された。大正時代における石器時代人骨の研究は、東京大学、東北大学、大阪大学、熊本歯科大学と京都大学清野研究室で行われていたが、このころこれほど多くの発掘人骨が集められた大学は、清野教室以外にはなかった。次いで昭和3年に清野の『日本石器時代人研究』(岡書院)が出版されて石器時代人骨656例、古墳時代人骨46例が紹介された。これによると石器時代人は現代日本人と現代アイヌ人に似ているが、その相似の程度は現代日本人の方が強く、人類学上の差異は混血の結果であることが述べられている。そして石器時代人を日本原人と呼ぶ説がこれまでの一元的アイヌ説に代って立てられた。清野は更に古代人骨の収集と計測をするかたわら現代日本人骨と現代アイヌ人骨の研究を続け、昭和24年の『古代人骨の研究に基づく日本人種論』(岩波書店)を発表した。