安東政季らの渡海

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 盛季が南部氏に破れて十三湊を放棄した時、盛季の弟安東四郎道貞の子、潮潟四郎重季(しげすえ)の嫡男政季(まさすえ)は、いまだ弱年であったので南部氏に捕われて、糠部八戸に人質となっていた。それがその後成人して名も安東太郎政季と改め、田名部を給せられていたが、享徳3年武田若狭守信広、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉(又は加賀守)政通(まさみち)らが、ひそかに計って政季を擁し、大畑から船出して蝦夷島に渡った。
 この政季らの蝦夷地入りについては、「機を見てその覊絆(きはん)を脱したか、もしくは竊(ひそか)に恢復を謀り、事露われて逃鼠(とうざん)したものと考えられる」(『新撰北海道史』)といい、あるいはまた、「田名部の豪族蠣崎蔵人が南部氏に攻められて松前にのがれたという事件と関係があるのではないか」(『新北海道史』)ともいわれ、その真相は明らかにしないが、しかし一方、時あたかも下国安東氏が断絶した翌年のことでもあり、見方によってはこの宗家継承のためもあったと考えることができる。こうして政季は蝦夷地にあること2年、津軽西浜で故地回復を図っていた出羽檜山安東の正系が敗戦によって絶えたので、康正2(1456)年迎えられてその地に至り、籌策をめぐらして秋田郡を奪いとり、檜山の城主となった。そののち子孫が秋田において勢力を維持し、松前藩が独立するまで蝦夷島の支配を続けた(『新羅之記録』『能代市史稿』)。
 政季が蝦夷地を去るにあたり、弟の下国八郎式部太輔家政茂別館(上磯町茂辺地)に置き、蝦夷島支配の地位を預け、宇須岸館(本市弥生町)の河野加賀右衛門尉政通を補佐役とし、また、大館(松前町西館)には、同族下国山城守定季を置き、相原周防守政胤をしてこれを助けさせ、武田若狭守信広を上ノ国に置いて、花沢館の蠣崎修理太夫季繁とともにこの地を守らせた。このほか当時いまの渡島半島沿岸には、志海苔館(函館市志海苔町)、中野館(木古内町中野)、脇本館(知内町涌元)、穏内(おんない)館(福島町吉岡)、覃部(およべ)館(松前町東山)、禰保田(ねぼた)館(松前町館浜)、原口館(松前町原口)、比石(ひいし)館(上ノ国石崎)等が点在して、いずれも安東氏に隷(れい)属していた。