箱館八幡宮 箱館奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町に遷宮された。ときに官では造営資金100両を贈るとともに、以後年々米20俵を支給することにした。また羽太、戸川の両奉行は弓矢、甲胃、額などを奉納したが、文化2年戸川奉行の献じた額には、次のようにしたためられている。 |
寛政中辺防議起、安論奉台命巡行、及後置鎮于箱館、安論與羽太正養拝其職、箱館旧有八幡宮、今徒地葺理、謹以弓矢一副献之神前、上以祈国家無彊、下以祷北陲安寧、伏望神慈監納 |
更に文化8年建物を補修し、境内も広くした。また、奉行所の祈願所なので、正月神楽と8月祭礼には、葵紋の高張提灯や幕が貸し与えられ、幣帛(へいはく)、神饌(しんせん)が献じられた。 |
亀田八幡宮 社職6代藤山季房が文化5年社誌を記述したが、7代政房も文政8(1825)年、『亀田八幡宮記元書』を残した。ことに松前家からは毎年祭祀料として玄米25俵が献じられ、大祭には代参があった。2月は鰊漁、6月には昆布の豊漁を祈願した。神職はもと修験者であったが、のち吉田唯一神道となり藤山姓を名のって現在に至っている。 |
弁財天社 享和元(1801)年、海中を埋立て堂をここに移したが、文化9年、そこが官の倉庫地になるので、町の南西の角に移した。 |
求中稲荷社 第2章第7節に記した館神であるが、享和3年7月、戸川、羽太の両奉行が再営し、石灯籠を上げ、官の守護神とした。しかし明治4年守護の名義とともに官祭も廃止し、翌5年、函館八幡宮に合祀された。 |
天満官 箱館八幡宮の摂社で、寛政年間(一説に寛政11年)の創建といわれ、文化年間に常盤町に移した。天神町の名はこれから生れた(いま山上大神宮に合祀)。 |
鶴若稲荷社 勧請年は不明であるが、文政年間と安政6年に社殿を再建した(いまは函館八幡宮境内にある)。 |
愛宕社 箱館八幡宮の社人が社務を掌り、明和6(1769)年再営の社である。寛政年間から正式に八幡宮の神職が管理し、嘉永2年に再建した。前記のごとく、もと無火神社ともいい、6月例祭、正月、5月、9月が鎮火祭で火防神事が行われ、奉行所から幣帛、神酒が献じられた(いま船魂神社に合祀)。 |
黒光稲荷社 文政6年3月、尻沢辺で鰊網を乾していたところ、1匹の黒狐がかかって死んだので、奉行所へ差出した。奉行所では4月奉行所地内に社を建て、皮を御神体として黒光稲荷大明神と称したという(のち他社へ合祀)。 |
大森稲荷社 八幡宮末社。社伝には文化のころ青森地方の漁民が祠を建てたといい、弘化3(1846)年の棟札も発見されたと伝えられている。 |
船魂社 嘉永年間にも再建された。 |
水天宮 もと高田屋嘉兵衛が東川町海岸寄りを埋立てた際、航海安全と千島開発の守護として勧請したと伝えられている(明治年間東雲町の現地へ移る)。 |
また、このころから末社の増加が目立った。
箱館八幡宮には前記のほか、眼光稲荷(享和3年)、運開稲荷、金毘羅(以上文政4年)、
神明社には住吉、天満、秋葉(以上文化4年)、稲荷(文化13年)、川濯(文政7年)などが出現し、文政4年には庚申塚も生まれた。