心学講釈所

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 嘉永4(1851)年、町年寄松代伊兵衛渋田利右衛門(共に弁天町の人)と謀り、鳥取藩士西川晩翠(守考)を招いて松栄講を結び、毎月1と6の日に心学道話を講じ、庶民教化を行った。心学道話とは神・儒・仏の3教を融合し、その教旨を平易に説いたもので、卑近な例を多く用いたから、庶民に喜ばれ、聴聞する者が多かった。安政4年には、その道場を大町沖ノ口前(いまの西警察署前)に新設したが、晩翠はついに落成を見ないで死亡した。称名寺にその墓がある。
 落成した道場は奉行堀利熙によって「誠終舎」と名付けられ、5月19日の落成式には、当時たまたま蝦夷地に来ていた姫路の儒官菅野白華(名は潔、『北遊乗』の著あり)が、孟子篇首一章を講じた。まさに本道心学の発祥であった。奉行も援助を惜しまず堀奉行は自ら「誠終舎」の額を揮毫し、竹内奉行は奉行屋敷で月に3度心学の講義を吏員に聴聞させた。その影響はのちに室鳩巣の『五倫名義解』が、宗谷御用所から出版され、また根室の通詞加賀屋伝蔵はこれをアイヌ語に訳すなどして、アイヌにも教化を及ぼしている。更に晩翠について心学を修めた箱館奉行支配定役代島剛平は、明治になってから「明正会」をつくり、夜間に箱館の庶民に道話を講じて庶民教化につとめた。
 松代伊兵衛は大野村の開拓にも功労があり、渋田利右衛門は前記のような町の学究で蘭学にも深く、『開物瑣言』の著があり、一方、所蔵していた多くの書物を一般庶民に貸与し、松栄講では自ら講説もし、時には声涙共に下って人々を感動させたという。

松代伊兵衛と「誠終舎」の額[1]


松代伊兵衛と「誠終舎」の額[2]