弁天台場の築造工事は、先にみたように安政3年冬からただちに着工されたが、着工時期が冬であっただけでなく、海面の埋立工事を伴っただけに、その工事は困難を極めた。このことは、「過半海面之処、分間地割縄張諸絵図面雛形仕様御入用積等取調方不二容易一手数相掛、殊其頃ハ御普請向之儀相心得候職分等も無レ之、役々とても不二事馴一義、一統格別困苦いたし取調、且箱館山より石類切出し方手配いたし、運送之儀者、冬分雪車を以牽出候得者、運賃御入用も相減候義ニ付、極寒之節風寒飛雪を冒し、多勢之人足懸ケ引いたし、所々走廻り、諸改方見届、夏分ニ至候得者、陸運送相止、船廻り為レ致、是又払暁より晩景迄着船次第海岸ニ而夫々改方致、追々埋立石垣築立方共取掛、水中地盤暗礁砂石等之次第見究、御不丈夫無レ之様附切心附、并石切出山之土取場等江も附切、又者見廻其余埋立方ニ付、市中より差出候冥加人足等進退差図いたし云々」(「御普請御用留」)とあるによっても知ることができる。またこの工事は、市中の間近で行なわれたために、人足や金銭を拠出する市民も多かった。こうしたこともあってか、難工事とはいえ、工事は比較的に順調に進み、安政5年9月までには、石垣の9割、土塁の5割が完成し、万延元年9月には石垣の完成をみ、元治元年9月に全工事の完成をみた。
ところで、この弁天台場には、当初の計画では、24ポンド筒50挺(「御普請御用留」では、80斤ボムカノン10挺、24斤ランゲカノン28挺、モルチエル12挺の計50挺)を備えることとなっており、しかも、これらの大小砲は、「箱館近在鉄砂吹立、銑鉄を以鋳立」、「西洋溶鉱炉・反射炉」を築造し、溶鉱炉で熔解させた銑鉄を反射炉で再び吹立てたうえで鋳造する計画であったが、反射炉や鑽孔台を設けるに至らなかったため、この計画は失敗に帰した。そのため箱館奉行は、万延元年10月、ロシアのディアナ号が沈没した際、プチャーチンが幕府に献上した52挺の大砲の拝借方を老中に願い出た。老中はこれを許可し、「請取方之儀ハ、御軍艦御奉行江可レ被レ談候事」と返答したものの、次いで、軍艦奉行の申立もあるので、「弐拾四挺当分相渡置候間、御軍艦奉行可レ被レ談候事」と返答した。これにより、最終的には24挺が箱館に送られることとなった。
次いで文久2年2月、肥前廻りの鉄製30ポンド筒24挺の拝借願いを出し、これも許可されたものの、これについては、実際に配備されたのかどうかは定かではない。
しかし、いずれにしても、弁天台場は、当初から軍事的な堡塁として築造され、かつ当初予定の築島台場は、結局築造されずに終わったために、この弁天台場のみがこの期に築造された唯一の洋式台場となった。なお、同台場築造に関係した請負人は、五稜郭と同じく箱館の佐藤忠兵衛、山田寿兵衛、杉浦嘉七、越後の松川弁之助、備前の石工・喜三郎と中川傳蔵の計6名であった(「御普請御用留」)。
以上、五稜郭関係の3つの工事と弁天台場の築造の概要をみてきたが、これらに要した経費は、五稜郭堀割・土塁・石垣工事費5万3144両余、御役所・役宅向普請費4万4854両余、亀田川堀割工事費6092両余、弁天台場築造費10万7277両余の計21万1368両余の多きに達した(「箱館鎮臺史料」江戸旧事来訪会編『江戸』)。しかし、幕末の激動期の幕府財政の困難な状況のなかで、五稜郭関係工事と弁天台場の築造のみにこれだけの費用をかけたにもかかわらず、これらの工事が完了してから僅か2年後に幕府は崩壊してしまうのである。