異人仲買

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 さて右の事例にある口入人についてであるが、彼らは通例異人仲買と呼ばれていた商人階層である。函館における異人仲買の第1号は柳田藤吉といわれているが、彼の回想記によれば開港当時異人仲買は人々から嫌われがちな商売であったので、彼はその後商売に成功してからは仕事を変えてさえいる。こうしたいわば偏見に満ちた職種であり、また鹿島も彼らを「大抵支那人の手付同様な者であって」とややさげすんだような言葉で語っているが、外国人と荷主との取引を成立させる上で重要な職業であった。清商も条約上通行の制限は受けていたため産地との直接の取引でこれらの仲買の果たした機能は大きいものがあった。6年の事例として船場町の瀧波重蔵と山ノ上町の小笠原半蔵の両名は東和号の依頼を受けて岩内に硫黄と煎海鼠などの買入に赴いている(明治6年「願届編冊」国立史料館蔵)。この取引は破談になったとあるが、時には前金取引によって産地の生産者に対して、その生産物を集荷するといった場合に彼らのような仲買商人の存在は清商にとってなくてはならない存在であった。
 
 表6-25 明治6年外国人仲買渡世
住 所
氏 名
住 所
氏 名
松陰町15
天神町
青柳町
上大工町36
会所町5
弁天町97
大町82
大町81
大町34
大町17
松 岡 宇 吉
淀 川 庄兵衛
山 崎 権次郎
桜 庭 茂兵衛
斉 藤 藤五郎
村 山 宇 吉
村 田 駒 吉
 原  常 吉
前 田 治三郎
福 地 善 六
大町24
仲浜町98
内澗町65
内澗町6
地蔵町47
地蔵町35
堀江町60
堀江町10
堀江町36
堀江町81
木 下 嘉兵衛
渋 川 富太郎
水 野 忠兵衛
丸 山 城四郎
西 川幸右衛門
亀 井 惣七郎
川 上 勇 蔵
柴 田 熊五郎
安 斉 仁 吉
浅 野 伊 吉

 明治6年「願届編冊」(国立史料館蔵)により作成.
 
 表6-25は明治6年に町会所で調査した函館市中の外国人仲買渡世の一覧であるが、これらの一覧と開港期の外国貿易に従事した仲買商人と比較すると同一人物は1人もいない。開港期に仲買として資本を蓄積して後に他業種に転じたものもいるが、それはほんの一部でしかない。そして一定の資産を形成しても景気変動などにより長期的な営業をしたものはいなかった。またそういった不安定要素を内包していた関係からか、職種替えをするものが多かったようである。彼らの経済的な位置を明らかにする資料はないが階層的に突出しているものはあまりいないようである。ただし村田駒吉、亀井惣七郎、水野忠兵衛、渋川富太郎、西川幸太郎はその後職業は変わっているが商業界で活躍している。村田はかつて長崎屋に奉公していた人物であり、文久期に独立して仲買業を始めた。長崎屋は俵物を扱う問屋であったので、そこでのノウハウを生かして仲買業をしたものである。昆布取引で産をなしたとある(『北海道人名辞書』)。この他に初代の函館区長である常野正義も仲買の経験者であった。彼ら異人仲買について『北海道紀行』には明治11年ころの貿易の景況として次のように述べている。
 
外国貿易ハ更ニ売込問屋及ヒ引取問屋等ナク各商估ハ居留外商ニ対シテ適意ノ売買ヲ為スヲ得然レトモ平素外商ノ間ニ出入シテ彼我貿易ノ周旋ヲナス者アリ。俚俗之ヲ異人牙保(イジンナカガイ)ト唱ウ。而シテ幾分ノ口銭ヲ払フテ媒介ニ従ハシム。此口銭ハ商況ノ盛衰ニ随テ異同ナキ能ハスト雖モ大約左記ノ如シ。
 口銭 二分五厘 即チ金百円に付金二円五十銭
 此外尚「カンカン」料ト称シ五厘 即金百円ニ付金五十銭 ノ目方改メ手数料清国商人ニ払

 
 こうした商習慣が清商と取引を開始した時点から導入されているかどうかは分からないが、後にカンカン料などの習慣が悪弊であるとして、3県期に入ると一大事件が引き起こされる。