蝦夷地直轄

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箱館嶴地図(蝦夷島奇観) 市立函館図書館蔵

 寛政十一(一七九九)年一月十六日、幕府は外国との境界取締りのため、松前氏から東蝦夷地の内、浦河より知床に至る地と島々を上地させ、七年を限りこれを直轄することにし、同日蝦夷地取締御用掛を置いた。その後幕府は八月十二日から知内以東浦河までの地を直轄地に加え、松前藩にはこれらの代地として、武州埼玉郡久喜町の五千石と東蝦夷地収入金の一部を支給することにした。
 一方寛政十一年春、蝦夷地を巡見した松平忠明らは最初陣屋厚岸に設置する計画であったが、八月十二日、知内より浦河まで直轄のことや、気候、風土が適しないなどのことがあり、協議の結果、蝦夷地取締御用掛仮役所を箱館の旧亀田番所の建物に置くことにした。(当時亀田奉行所の建物は二か所で、一つは亀田に在ったもので寛保元(一七四一)年以前、亀田奉行所が箱館に移動する前の建物であり、いま一つは箱館の河野館跡に建てられていたもので、亀田奉行所が箱館に移った寛保元年以後使用されていた建物であった。
 寛政十二年四月来箱した蝦夷地取締御用掛の一人である三橋藤右衛門成方は、箱館の仮役所では手狭であるため、当時亀田にあった旧亀田奉行所の建物を修理して役所とし、ここから万事の指揮をとることにした。この時幕府は千人頭原半左衛門と、御雇同心百人に鉄砲五〇挺を持たせ、この番所に配備する予定であった。
 しかし亀田村に役所が置かれたのは約半年間ほどで、九月三橋成方が江戸へ帰り、代って村上三郎右衛門常福が来箱するや、箱館の旧亀田奉行所跡の建物を改造し、役所を亀田から箱館に移した。
 その後享和二(一八〇二)年二月、幕府により蝦夷奉行が置かれ、戸川安論、羽太政養が奉行に任ぜられ、同年五月には蝦夷奉行箱館奉行と改められ、更に同年七月には箱館付近及び東蝦夷地は永久直轄地とされた。
 文化元(一八〇四)年春、亀田村に在り、長く村民に親しまれてきた旧亀田奉行所の建物は箱館に移され、奉行交代屋敷として利用されることになった。位置は旧河野館新庁舎の向かい側で、当時の建坪は二百坪であった。亀田村にあったころもおおよそこの程度の広さであったろう。残念なことに文化三(一八〇六)年十月の大火でこの建物は焼失している。
 幕府は松前蝦夷地全部を直轄し、なお文化四年十月より奉行所を福山に移し、松前奉行と改称している。