ゴロウニン事件が平和裡に解決(1813年・文化10年)した以降、表面的には平静を保っていた国際情勢も、1820年代に入ると諸外国の船が頻繁にやって来るようになり、活発に動き始めた。幕府も松前藩もその対応に頭を悩まさなければならなかった。
ここでは特に、蝦夷地への外国船・異国船の来航とその状況ついて、松前町史年表より蝦夷地に関わる主な事項を抜粋し記述する。
・一八二三年(文政六年)八月、幌泉(現エリモ町)沖に異国船来航二〇人余が上陸する。松前藩は物頭柴田浦太等を派遣し退去させる。
・一八二八年(文政十一年)六月、東蝦夷地サル沖を異国船航行する。
・一八三一年(天保二年)二月、厚岸のウライネコタン沖に異国船来航上陸、厚岸勤番所の出張人と戦闘となる。松前藩も藩士を派遣し応戦するが、ウライネコタン・キリタップ(霧多布)の漁小屋焼払いを受ける。
・一八三二年(天保三年)七月、椴法華沖に異国船来航、橋船で六人が上陸。松前藩は藩士の一番手・二番手の出勤を命じたが、船員らは翌日母船に帰り同時に異国船も沖合に去る。
これら度重なる外国船・異国船の来航に、松前藩は、天保15年(1844年)より蝦夷地の警備を強化するよう迫られ、松前城下に台場5か所、箱館に台場4か所、江差・白神岬・吉岡村(現福島町字吉岡)・矢不来岬・汐首岬にそれぞれ1か所の、合計14か所の台場を構築し、さらに勤番所を、東蝦夷地の山越内(現八雲町字山越)・絵鞆(室蘭)・様似・釧路・厚岸・根室・国後・択捉の8か所と、西蝦夷地の石狩・宗谷・樺太(サハリン)の3か所、合計11か所の勤番所を配置した。
松前藩はこれら施設設備のための莫大な費用と、併せて、異国船の来航・非常時に備えて藩士の出番の編成など、軍事を想定した態勢づくりに苦慮しなければならなかった。
そして、異国船の来航はさらに頻繁となる。
・一八四八年(嘉永元年)五月、アメリカの捕鯨船ラコダから短艇で脱走の乗組員一五人、小砂子村(現上ノ国町字小砂子)に上陸、食料を要求するが村民に拒否され、江良村へ行き救助を求める。町奉行見分後逃亡するが、即捕らえられ安泰丸で長崎へ護送される。
・同年(同年)六月、アメリカの捕鯨船プリマス号の乗組員マクドナルド利尻島ノッカに短艇で着岸、遭難者を装い救助され、松前に護送、江良村抑留所に収容、後長崎抑留所に移され英語を指導した。
・同年(同年)六月二十三日、アメリカ漁民三十四人短艇で樺太(サハリン)白主に上陸、運上屋に来て白米と丸太二本を獲得、丸太を帆柱にして沖合へ去る。
・一八五〇年(嘉永三年)三月、松前城下沖合に異国船来航。七月、江差・奥尻沖に来航。
・同年(同年)四月、イギリスの捕鯨船エドモント号、東蝦夷地厚岸のマビロに漂着、七月、箱館に航送中暴風に遭い長万部沖で一名溺死。箱館から長崎へ送られる。
松前藩は、日を追って不穏な状況となる外国船・異国船の来航や乗組員の上陸に、警備のさらなる強化のため、嘉永5年(1852)幕府の許しを受け、新たな築城と松前城下沿岸の砲台構築にも着手した。