戦後の遭難

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いか釣り船衝突「四名が行方不明」   昭和22年(1947)9月9日『北海道新聞』
 七日午後十一時十分頃、尻岸内村字恵山中野由太郎氏所有漁船「高栄丸」(五トン)船長三国常蔵さん乗組員一七名は恵山沖で機関故障のため漂流中、室蘭栗林商会所属汽船「第三三陸丸」(四九八トン)が激突「高栄丸」は船体真二つになり沈没、乗組員全員、海中に投げ出され一三名は救助されたが、笹川八蔵・勝又武志・高松米昭・川村矢佐雄さんの四名は行方不明となる。
 
漁船十余隻遭難 死者一名「恵山沖の濃霧襲来で」   昭和23年(1948)8月21日『北海道新聞』
 十九日午前三時頃、恵山沖を襲った濃霧で同夜イカつけ出漁中の漁船約五〇隻中、暗礁に乗上げるもの、衝突、座礁して沈没するもの続出、惨状を呈しており函館水上警察では直ちに、飛龍丸ほか六隻の救助船を現場に派遣した。尚、出漁船の大部分は新潟・富山・石川の地方船とみられる。
 
古武井沖に船一隻漂流   昭和23年(1948)8月29日『北海道新聞』
 二十四日尻岸内古武井沖六哩に機帆船用伝馬船が漂流しているのを発見。
 
恵山沖で長生丸行方不明   昭和23年(1948)11月19日『北海道新聞』
 苫前郡焼尻村斉藤万作氏所有発動機船「長生丸」(五トン)は、船長亀田郡戸井村池田孫治さん他一四名を乗せ、恵山沖に出漁したまま帰還せず行方不明。
 
巡視船を増強・イカ漁に備え   昭和25年(1950)6月15日『北海道新聞』
 七月からのイカ漁期に備え海難防止のため海上保安部は巡視船ちどり丸を増強。
 
[海の遭難]全道で六カ月に三二六隻、筆頭は恵山沖   昭和二十五年(一九五〇)七月九日『北海道新聞』
 第一管区海上保安部では、このほど本年一月から六月末まで道内海難発生数を集計した。これによるとこの期間の海難数は汽船一八九隻(三十万二千六屯)、機帆船、一三六隻(六千四百四十四屯)、合計で毎日平均一・八隻の割で海難が発生していることを示している。月別にみると、シケの多い一月が七七隻で最も多く、その他の月は四〇~五〇隻と比較的平均している。
 魚類の季節漁獲に比例し海難件数が増加していることは本道海難の一つの特徴で、発生地区別には恵山・白神岬間の津軽海峡一帯が四六隻(五万七千屯)と本道漁場の最難所であることを物語っている。雄冬・白神間の本道西海岸や宗谷岬付近水域の海難もこれに次ぐ数を示している。〈以下、中略〉 事故種類は時化、暴風雪に遭遇したもの一〇一隻、船同士衝突したもの五一隻、乗揚・座礁・機関損傷四一隻、岸壁、その他の単純衝突三九隻、火災その他四五隻となっている。
 「同本部吉田理事官談」
 事故別分類にもみられるように、天候の影響によるものが多いのは本道の特徴である。この遠因を突き詰めると船体・機関の老朽、ラジオ・無線など通信設備の不完全、乗組員の不注意・技術拙劣等、いろいろあるが事件として審判にかかるものの中には乗組員の不注意によるものが一番多い。又、中には漁獲物を能力以上に積込んで転覆したもの、漁獲物を運ぶのを急ぐ余り狭い水路で先を争い衝突したものなど、欲張って元も子もなくするような事件もあった。
 これらのことから、乗組員の判断で事故はもっと減らせると言える。
 
衝突事故が続発「漁船、シケの遭難は影ひそむ」   昭和25年(1950)10月12日『北海道新聞』
 九月の初め頃までは二日に一度の割で発生していた道南沿岸のシケによる漁船遭難は、キジア台風が去って以来影をひそめているが、今度はこれに代わって衝突事故が発生している。八月中の漁船遭難件数は二三件、一・五日に一件、九月中もキジア台風襲来までに七件を数え、二日に一件の割で発生していたが、その後は衝突事故が漸増し九月末三件であったのが、今月に入って六件を数え、特に山形県の漁船「慶運丸」(一五トン)と尻岸内村、野呂斧右衛門所有「神祐丸」(一〇トン)が衝突したところへ、さらに函館市の村上義治所有の漁船「富丸」(一七トン)が衝突するという三重衝突まで起こっている。衝突事故の多くは恵山沖合でイカつけ中に起こっていることから、イカつけ漁船が豊富な魚田の恵山沖に集中することが原因とみられる。
 
遭難白書 魔の津軽海峡
  無謀な出漁が原因 −イカ釣りを筆頭に約三〇〇隻−
         昭和二十五年十月十二日付北海道新聞コラムより
 全道的に見ても最も発生率が高いといわれている函館周辺、津軽海峡付近海域で起こった遭難船舶の過去一年間における事故件数統計がこのほど函館海上保安部でまとめられた。
−以下は数字が物語る遭難船舶白書−
 まず、事故中最も多いとされているイカつり漁船の行方不明は、今年度七月頃より目立って増加し年間を通じ、実に八四隻、二千四百三十二トン、つづいては同じく海上の衝突で八一隻、七千八百二トン、次に航行中機関に故障を起こし航行不能となり、SOSを発したものは五一隻、千九百七十七トン、座礁・座州はこの四月、函館穴澗付近に船体を乗上げた青函貨物連絡船第十二青函丸を筆頭にして、四五隻、一万九百七トン、沈没は青森県西津軽郡深浦沖合でシケの犠牲になった東邦海運会社汽船古城丸(一、六四八トン)をトップに一九隻、二千六百八十七トン、漂流一二隻、百九十八トン、その他一一隻、約二百トン、総隻数は、二百九十五隻、総トン数二万六千三百四という膨大な数字に上っており、金額では実に数億円の損害になっている。さらに、金ではかえられない人的資源の損害を見ると、行方不明は百八十五名、死亡三十四名が尊い海の犠牲となっている。
 発生する海域では、やはり恵山沖、津軽海峡が断然多く八割を占め、船はやはりイカ漁の漁船がその大部分となっている。なおこうした事故の発生率はおそらく、全国的に見ても珍しいとされているが、事故原因はやはり漁にあせる漁民の無謀な出漁、天候をカンで押し切ろうとする無理がこの結果を生んでおり、事故絶滅のための人々の強い反省が望まれる。
 
〝魔の恵山岬〟守る「海上保安部の椴法華分所開所する」   昭和26年(1951)10月2日『北海道新聞』
 椴法華尾札部臼尻・鹿部・砂原・戸井・尻岸内の漁村が待望久かったライフ・セービング・ステーション(救命艇基地)として小型漁船の遭難・救助を対象に本道に初めて設置された函館海上保安部、椴法華分室は救命艇「あかし」(一〇トン)の到着で、いよいよ活動を開始することになり、その開所式が一日午後一時三十分から小雨に煙る同村字元村の船入澗に設けられた新設ボートハウス(四七坪)で盛大に挙行された。
 
イカ釣船が衝突「幸丸沈没 乗組員は救われる」   昭和26年(1951)12月3日『北海道新聞』
 尻岸内村字古武井六哩海上でイカ釣中の銭亀沢川村栄太郎氏所有漁船「幸丸」(一三トン)は同じくイカ釣中の爾志郡乙部村阿部初四郎氏所有漁船[紀陽丸」に衝突され、幸丸は沈没、乗組員一六人は紀陽丸に救助された。
 
恵山沖で底曳舟漂流   昭和27年(1952)1月4日『北海道新聞』
 三日午前十時頃、恵山岬沖北東二〇哩の洋上で底引き作業中の、宮城県塩釜市の「第五幸丸」(三六トン)一一名乗組がグランドシャフトを切損、救助を求めながら漂流中との連絡あり、海上保安部では巡視船「だいおう」を現地に急派。
 
吉粧丸、恵山沖で故障し漂流   昭和27年(1952)1月8日『北海道新聞』
 函館市祐川氏所有底曳船「吉粧丸」機関に故障を起こし恵山岬沖北東二〇哩の洋上を漂流中を付近を航行中の漁船が発見、巡視船「りしり」が救助に当たっている。
 
イカ釣船、日浦沖で沈没   昭和27年(1952)8月6日『北海道新聞』
 函館市坪田氏所有イカ釣出漁中の機船「保丸」(一一トン)は尻岸内沖合で座礁、僚船に引かれて帰港中浸水のため日浦沖一哩付近で沈没、乗組員一五名全員無事。
 
恵山沖で漁船衝突   昭和27年(1952)11月13日『北海道新聞』
 恵山沖四哩付近に出漁中の函館市山卯水産会社所有漁船「昭豊丸」(一三トン)は富山県井田氏所有漁船「豊幸丸」(一五トン)と衝突、昭豊丸は右舷船首破損、豊幸丸に曳航され古武井港まできたが浸水のため沈没、双方幸い人命に異状なし。
 
恵山沖でマス漁の磯舟転覆「一人は行方知れず」   昭和29年(1954)4月15日『北海道新聞』
 尻岸内村字恵山、漁業大杉秀夫さん・同平島弥一さん・同坂本義男さんの三名はマス釣で磯舟が転覆、二名は助かったが坂本さんは行方不明。
 続報、磯舟が転覆し行方不明になっていた坂本さん遺体で古武井沿岸に打上げられる。
 
タンカー座礁「尻岸内沖で濃霧のため」   昭和29年(1954)6月29日『北海道新聞』
 尻岸内村約三〇メートル沖合で濃霧のため飯野海運所属油槽船「東興丸」(七九トン)が座礁、函館海上保安部巡視船「だいおう」が現場に到着したが、水深浅く自力離礁は困難なため日本サルベージに救助方を要請した。
 
函館の住吉丸沈没「稚内で、船員多数が行方不明」   昭和30年(1955)2月22日『北海道新聞』
 稚内地方は暴風雪が二一日も終日つづいた。行方不明船一五隻・行方不明者三一名、沈没または大破船一五隻。大破した函館市伊東孝作氏所有タラ釣船「住吉丸」(三〇トン)の乗組員、亀田郡尻岸内村の前田米太郎さん、同橋本友治さん、函館市住吉町二本柳勝さんの三名は行方不明。
 
機帆船恵山沖で座礁   昭和30年(1955)5月26日『北海道新聞』
 濃霧のため機帆船「京栄丸」(六〇トン)所属不明、恵山岬沖合五〇メートルで座礁す、椴法華海保分室から救命艇「あかし」救助に向かったが船体・人命に異状なし。
 
漁船、恵山沖で漂流   昭和30年(1955)7月24日『北海道新聞』
 厚岸から函館に向かう函館市野村氏所有漁船「第二栄漁丸」(二六トン)恵山沖で機関に故障を起こし漂流中 室蘭海上保安部「さがみ」が現場に急行している。
 
イカ船、大型船と衝突「恵山沖で、乗組員七名が重軽傷」   昭和30年(1955)11月9日『北海道新聞』
 恵山灯台東南二・六二哩の海上で東京都中央区泉汽船の汽船「第八泉丸」(二、一七〇トン)とイカ釣り操業中の爾志郡熊石村黒田氏所有漁船「第二菊丸」(七トン)乗組員一二名が衝突、菊丸は大破、乗組員は全員僚船に救助されたが七名が負傷した。
 
恵山沖でSOS   昭和32年(1957)1月22日『北海道新聞』
 青森市辻本氏所有の運搬船「第一福洋丸」(四九トン)は恵山灯台東方一五哩で、機関に故障、救助信号を発したので函館海上保安部より巡視船「だいおう」出動。
 
マリア・エル号恵山沖で故障   昭和32年(1957)1月27日『北海道新聞』
 函館ドックで完工したリベリア船籍「マリア・エル号」(一二、五〇〇重量トン)は、米国へ向け出港したがエンジン故障のため戸井村汐首岬沖合で停した。
 
漁船の遭難相つぐ
 [本社選定 道内ことしの十大ニュース]
              昭和三十九年十二月二十日 北海道新聞
 【五月十五日】渡島管内尻岸内村恵山岬沖で日魯漁業のサケ・マス母船「協宝丸」と道漁業公社の独航船「第三海鳳丸」(八四・七トン)が衝突、第三海鳳丸は沈没、乗組員二一人全員が行方不明となり、北洋漁業再開以来、異例の事故となった。
 【一月十四日】積丹沖でスケソ漁船沈没八人が行方不明となる。
 【同二十二日】中部千島海域でタラ漁船が消息を断ち一五人が行方不明となる。
 【六月四日】釧路沖でサケ・マス漁船が遭難一三人が死亡、四人が行方不明となった。
 【一二月三・四日】色丹島沖でタラはえ縄漁船の三重遭難事故があり死者一人、行方不明四人を出した。
 【同六日】 同じタラはえ縄漁船「第一一幸福丸」が北千島沖で船火事を起こして沈没、乗組員一七人の内九人焼死、二人重傷の船火事として、戦後最大の悲惨事となった。
 
花火船が引火爆発「船体真っ二つ、二人けが」   昭和62年(1987)8月10日『北海道新聞』
 九日午後八時頃、恵山町日ノ浜ビーチ開かれていた〝サマー・イン・エサン〟の花火大会で沖合二五〇メートルで花火を仕掛けていた町所有漁業指導調査船「つつじ丸」(一・二トン)が突然爆発、花火師の和泉貞雄さんと町内の手伝いをしていた四人は、爆発直前に海に飛び込んだが、内、豊浦の佐藤孝一さんは顔に軽い火傷、日ノ浜の東伸弘さんも頭に軽傷を負った。
 
恵山沖の漁船漂流「パイプ損傷が原因 えい航されて函館港に」   昭和63年(1988)8月13日『北海道新聞』
 十二日夜、恵山町・恵山岬の沖合二〇キロの海上で浸水事故を起こし乗組員一一人全員が救助された檜山管内大成町イカ流し網漁船「第五一龍盛丸」(二二九トン)は浸水が止まり函館港へ曳航。
 
恵山岬沖で無許可操業「宮城県の漁労長三人逮捕」   平成元年(1989)3月27日『道新(全道版)』
 宮城県船籍の沖合底引き漁船が、本道沖で越境操業を繰り返していた事件で函館海上保安部は二十七日、新たに三隻の漁労長を漁業法違反の疑いで逮捕、捕まったのはいずれも同県塩竈市の第二一長運丸(六六トン)第一〇漁栄丸(六六トン)第三一栄丸(六六トン)の三名の漁労長で、調べによると同海域での操業許可がないのに底引き網で「メヌキダイ」など捕った疑い。
 
イカつり漁船貨物船に接触「霧の恵山岬沖で」   平成4年(1992)8月31日『道新(全道版)』
 渡島管内恵山岬灯台沖、北約一八キロで宮城県石巻市山興海運所有貨物船「興恵丸」(六六一トン)の船尾に椴法華村岡山信一郎さん所有のイカつり漁船「信栄丸」(一四トン)が接触、船首が破壊したが双方とも乗組員は無事であった。事故当時、現場は濃霧で両船とも速度を落として航行していた。
 
漁船衝突一隻沈没二名救助   平成6年(1994)5月30日『道新(全道版)』
 渡島管内恵山岬の南東約三五キロの海上で、同管内南茅部臼尻小川利喜美船主兼船長のホッケ刺し網漁船「美枝丸」(四・八トン)二人乗組みと、同木直民谷吉郎船主兼船長の同「第一八喜栄丸」二人乗組みが衝突、美枝丸が転覆・沈没し小川船長と長男利之さんは海に投げ出されたが、喜栄丸に救助された。
 
貨物船同士が衝突「恵山沖 双方に穴、けが人なし」   平成6年(1994)7月21日『道新(全道版)』
 渡島管内恵山岬の南東約二二キロの海上で、宮城県石巻市山興海運所有の貨物船「興裕丸」(四九〇トン)木村勝船長五人乗組が、前を航行中のキプロス船籍貨物船フレモ・スコアビウス号(一六、五六九トン)トーマス・ロレンゾ船長らフィリピン人ら二四人乗組みの左舷船尾に衝突、両船は船首と船尾に穴が開き興裕丸は浸水したが、双方にけが人はなかった。興裕丸は穴に毛布を積めるなど応急処置をして室蘭港へ、フレモ号は函館港へ向かった。
 
イカつり船不明   平成6年(1994)11月1日『道新(全道版)』
 後志管内積丹町川村千里さん所有、一人乗りイカつり漁船「千幸丸」(一九トン)は、三十一日夜、恵山岬灯台北北西一九キロで操業していたのを最後に消息を絶った。
 
横波で漁船沈没「乗組員三人は無事」   平成8年(1996)9月2日『道新(全道版)』
 恵山岬灯台南南東一五キロで、後志管内村滝山洋右船主、兼船長のイカつり漁船「第三八金比羅丸」(一九トン)横波を受け転覆、乗組員三人は近くの漁船に救助された。同日は早朝から強風波浪注意報が出されていた。
 
漁船とロシア船、衝突「恵山沖で、けが人なし」   平成8年(1996)10月24日『道新(全道版)』
 恵山岬から南約二〇キロの海上で青森県野牛漁協所属イカつり漁船「第八幸栄丸」(九・七トン)三人乗組みと、横浜からウラジオストクへ向かっていたロシア貨物船「ササ・コノフ」(三、七三六トン)二六人乗組みと衝突、けが人はなし。当日は天気に恵まれ視界二〇キロはあった。函館海上保安部は双方から事情を聴取する。
 
漁船と貨物船が衝突   平成8年(1996)10月24日『道新(全道版)』
 恵山岬の北約一六キロの海上で渡島管内南茅部町工藤昭太郎船主兼船長のスケソウ刺し網漁船「第一五八幸丸」(九・九トン)四人乗組みと徳島県福長海運の貨物船「海福丸」(四九八トン)が衝突八幸丸船首を大破・四人は軽傷、自力入港する。